『江戸泰平の群像』45・最上 義俊(もがみ よしとし)(1605~1632)は、江戸時代前期の大名で、最上氏の第13代当主。出羽山形藩の第3代藩主、のちに近江大森藩主。最上家親の嫡子。慶長10年(1605年)、山形藩の第2代藩主・最上家親の嫡子として生まれる。当初の名乗りは家信(いえのぶ)。「家」の字は徳川将軍家(家親に1字を与えた徳川家康であろう)からの一字拝領だったらしく、改易後に返上して義俊と改名している。元和3年(1617)、父・家親が病死したため13歳で跡を継いだ。しかし、若年の義俊は藩主の器にはふさわしくないと先代・先々代からの家臣の反発を招き、こうした一部の家臣は、叔父の山野辺義忠が藩主たるべきと考えるようになった。義俊はこれに怒り、父の死因は義忠による毒殺であると幕府に訴えた(最上騒動)。幕府の調査では、「山野辺義忠擁立の要望は組織だったものではない」「先代の死は急死であるが自然死であった」そして「義俊の政治が極めて拙い」と結論づけた。幕府は、家康が一大名の代から最上家と同盟関係にあったことを考慮し、義俊と老臣、特に山野辺義忠擁立派の間を仲介しようとしたが、両派は譲り合わず(老臣の一部は「この主君では既に先が見えている」として協力を拒否した)、元和8年(1622821、遂に改易された。義俊が壮年に達したのちには6万石を賜わるという沙汰ではあったが早世し、この約定が果たされることはなかった。出羽山形57万石を改易された後は、近江大森1万石に入封するが、寛永8年(1631年)に死去した。享年27。嫡男の義智に家督相続が認められるが、年少のため5000石に減封され、以後の最上家は交代寄合として存続した。義俊は暗君とされがちであるが、福島正則改易立ち会いの際に逆らうことはなく、若年ながら見事な統率を発揮したとして、秀忠が刀を与えたという。ただし、当時の義俊の力だけでは家臣の制御ができなかったであろうことは、後の経緯から推測することは可能である。