『歴史の時々変遷』(全361回)301“太閤検地・古検・新検・江戸町民による検地”
「太閤検地・古検・新検・江戸町民による検地」江湖東・湖南域における主な検地としては、天正19年(1591年)に終了した6尺3寸(約1.91m)を一間として用いた太閤検地、慶長7年(1607年)の徳川幕府による6尺1分(約1.82m)を一間とした検地(古検)、延宝5年(1677)の前回同様6尺1分を一間としたがより厳格に行われた検地(新検)がある。彦根藩や膳所藩では独自の検地をそれ以降も行っていたが、近江天保一揆が起きた湖東・湖南域では抜本的な検地は行われていなかった。その後、文政年間(1818-1830)江戸の町人大久保今助より幕府に対し近江湖辺と川筋の検地を行いたいとの願い出があり、年貢定納を条件に増加分田畑の私有地化が認められ、5尺8寸(約1.76m)を一間とする検地が行われた。大久保今助は水戸藩が行った献金郷士制度により同藩の士分を得たが、徳川斉昭より献金郷士が腐敗の元凶と看做され、天保2年(1831年)水戸藩を致仕した人物である。徳川家斉の側近から老中となった水野忠成により、瀬田川の川浚いとそれによる琵琶湖水位低下から生じた湖水縁や川筋空地の新田開発が命じられ、水戸藩致仕後の大久保今助が資金提供者として迎え入れられたのが町民検地の実態であった。村人にとり新開場となる湖水縁・川筋は、湿地の泥等は本田の用地や肥やし・葦は屋根材から牛馬の飼料・小魚などの副食を得るための生活の場であった。その様な新開場とされた場所は、低地で耕作には向かない場所であるが、幕府の契約により新開場が今助の私有地にされ利用ができなくなること自体が、村人の生活に大きな影響をもたらすものであった。このため、村や庄屋が今助から買戻しを行うこととなった。買戻しを行った庄屋の中には野洲郡戸田村(一揆後所払い・闕所となった)がいた。但し、庄屋や村による買戻しには限界があり、幕府が働きかけ地縁・人縁がある八幡の近江商人に新開場を購入させた。一時今助の病気から新田開発は中断したが、今助の息子大久保貞之助やその手代与兵衛に引き継がれた。川筋への新田開発に対しては野洲郡・栗太郡・甲賀郡52ヶ村の農民達は奉行所に対して、『凶作が続き不足の事態が出来するかもしれない』『新田により旧田の灌漑に支障を来たす』ことを理由に見分延期を申し入れ、受け入れられた。この時52ヶ村の代表者には後の土川平兵衛や甲賀郡岩根村(現湖南市)庄屋谷口庄内(一揆後所払い・闕所となった)が含まれている。ただ、検地結果は取り入れられ野洲郡今村(現守山市)では従来石高は600.66石とされていたのが、この検地により260石が新たに算出され、今村の農民の困窮を招いた。幕府は一連の新田開発により琵琶湖一円で2,129.15石を新領として計上でき、この実績が幕府自身による天保の見分に繋がったとも考えられる[15]。天保12年5月15日(1841)第12代将軍徳川家慶は江戸城大広間に幕府要職者を集め、改革の趣意に従うように命じ、綱紀粛正と冗費倹約を求める厳しい申し渡しを行い、天保の改革が始まった。天保の改革は『貨幣経済・消費生活』に対抗する『重農主義・経費削減』を基本原則とした禁欲的な政治改革で、『奢侈禁止令・倹約令』が出されると共に、天保12年11月(1841)には、物価引下げを目的として『株仲間の解散』、重農主義と年貢収入増加の観点から江戸に流入している農村出身者を帰らせる『人返し令』が出された。併せて、幕府財政の根幹である年貢増の抜本策として検地による幕府年貢収入増加が目指された。正保2年(1645)の全国総石高は2,455万石で、近江は陸奥143万石・出羽97万石・武蔵98万石・常陸84万石に次ぐ第5位83万石とされたが、天保5年(1834)時点では全国総石高3,055万石、陸奥287万石・出羽130万石・武蔵128万石・越後114万石・常陸101万石・近江85万石と、近江は全国第6位に下がり、上位の国は少なくとも3割以上石高が増えている中微増に留まっていた。公の力(幕府)で延宝の検地以来抜本的な検地活動が行われていない近江に対し、幕府が検地による石高積み上げを行おうとしたことは当然の成り行きであった。そして、湖東・湖南域は天領と幾つかの他国大名以外は小藩・旗本の領地であり、幕府にとり検地を行う上でこれらの領主は扱い易い相手であると共に、享保7年(1722)と安永6年(1777)に幕府が出した『私領地先の山野河海は、一円を私領で囲まれる土地以外、公儀によって開発されるべき』との幕令により、湖東・湖南域の新開場は幕府のものとなる土地であった。天保12年11月(1841年12月)、京都町奉行は突然草津川・野洲川・仁保川筋及び湖水辺の蒲生郡・野洲郡・栗太郡・甲賀郡375ヶ村の庄屋を呼び出し、『各村先の空地、川筋・湖辺の新開地の見分を行うので用意して沙汰を待て。今般の見分は公儀(幕府)が行い公役(幕府役人)が直接行うので愁訴・嘆願がましいことは許さない。』との口達を行い、各庄屋より請書を徴した。同年12月(1842)には、水野忠邦自ら幕府の事業として湖水縁りや諸川の新開場見分のため幕府勘定方市野茂三郎を派遣する旨の通達を出した[2]。天保13年1月11日(1842)、老中水野忠邦から与えられた見分親書を持ち幕府勘定方市野茂三郎が京都奉行所与力、大津・信楽(現甲賀市信楽町多羅尾)代官所役人の出迎えを得て近江水口宿(現甲賀市水口町)に到着した。京都にて打ち合わせを行った後、市野茂三郎以下、普請役大坪本左衛門・藤井鉄五郎、京都町奉行所与力2名、大津・信楽代官所手代より各3名が検地役となり、絵師・医師・下働きの者を含め総勢40余名にて、野洲郡野村(現近江八幡市)より江頭村(現同市)・小田村の仁保川筋の検地に取り掛かった。この時、検地に先立ち回村予定の各村に『触書』が出された。内容は『今回の新開田畑の見分は国益を増進させる目的である。』『新田は余所者(江戸町人大久保今助等)に背負わせず村請にすることから村にも益がある。』『新開場があると聞いているので見聞する。』『近江は一旦請書を出しても彼是申し立てる悪弊があるが、今回は認めない。』であった。『触書』と共に、京都町奉行所は仁保川筋の蒲生郡・野洲郡・栗太郡・甲賀郡各村の庄屋を呼び出し、『近江国では何かと意義を唱え、騒ぎ立てる悪弊があるが、今回は絶対させない』との一項が入った『通達に違約しない』旨の請書を提出させていた。細則も定められ『見分役人の回村前夜までに、その宿泊所に村役人は新開場所の絵図面・村絵図・高反別明細帳・検地帳を提出すること』『見分役人の接待には無駄を省き、食事は一汁一菜にし馳走しないこと。仮に酒肴、菓子、心ざしを出しても就き返す。もし下役の者が私欲がましいことをしたら申し出ること。休み場所に気をつかうな』等と定められていた[12]。幕府からは見分との言葉が用いられていたが、見分とは『空き地や新開できる場所を見つけ出す』行為であった。しかし、市野一行は既に検地帳に記載されている田畑(本田)まで5尺8寸を一間とした(文政年間大久保今助が行った検地同様の)棹で測量し、余剰地を空地として石高をつけた。本田を検地することは『石高が動くことなれば容易のことにあらず』『公儀の御免なければ諸侯も欲しいままになし給うこと能わず』と定められ、容易に検地や石高変更を行うことができないはずであった。これに対して市野等は、新田の見分は『検地条目』によりでき、あくまでも今回は見分だと主張した。水口藩(藩主加藤明邦 2万5千石)の井口多兵衛は大津代官所において、御慈悲の御見分であれば良いが『御無慈悲の御見分と相成候ては、騒ぎ立て申すまじき御請け合いはいたされず』と語り、無慈悲な見分であったならば一揆等が起こっても責任は持てないとした。また、近江の多くの小領主は財政難の時に隠れ持っていた田畑が見分により取り上げられることは避けたいと当然に思っていた[12]。また、領主である大名・旗本は領地の豪商や大庄屋から借り入れを行っており、実際三上村に陣屋を置く三上藩(藩主遠藤胤統 1万石)では大庄屋大谷家から支援を受けていた[12]ことから、庄屋層の疲弊は自分達のためにも避けたいものであった。膳所藩の対応は明らかではないが、先の大久保今助による検地に際して、見分中止と共に膳所藩領先の新田を幕府領とされたことに対して、天保5年(1834年)に享保・安永の幕令より『膳所藩領に囲まれた新田は幕府領ではなく膳所藩領』となるはずとの考えから返還を申し出たが、琵琶湖は幕府の物と言い出し新田は膳所藩領だけに囲まれている訳ではないと主張され、2年後に漸く返還された苦い経験を持っていた[15]。彦根藩が天保3年(1832年)に同様の趣旨で見分中止を申し入れあっさりと受け入れられた[15]だけに、幕府への不信感は強いものがあると想像される。市野一行が称する所の見分は、野洲郡野村から小田村・江頭村へ仁保川筋を遡って実施されたが、仁保川筋の各村は、既に大久保今助による検地が行われていたこと、及び草津川・野洲川より小さい川である仁保川は後回しになると思っていたため、大いに動揺したことが伝えられている[18]。しかも、用いられた棹は5尺8寸を一間とするもので、この棹で測ると、一反の田から22坪の余剰地が算出されることになる。
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