代の女性。豊臣秀頼・本多忠刻の正室。父は徳川秀忠、母は継室の江。号は天樹院。慶長2年(1597年)4月11日、秀忠と江の長女として、山城国伏見城内の徳川屋敷で産まれる。慶長8年(1603年)に7歳で秀頼と結婚し、乳母の刑部卿局とともに大坂城に入る。慶長20年(1615年)の大坂夏の陣では、祖父・徳川家康の命により落城する大坂城から救出される。その後、秀頼と側室の間の娘・天秀尼が処刑されそうになった時に千姫は彼女を自らの養女にして命を助ける。元和2年(1616年)、桑名藩主・本多忠政の嫡男・本多忠刻と結婚。この時、津和野藩主・坂崎直盛が輿入れの行列を襲って千姫を強奪する計画を立てていることが発覚し、直盛は家臣により殺害され、それを直盛が自害したように見せかけたが、坂崎家は改易処分となった(千姫事件)[2]。同年9月26日に桑名城に着いた。この時に10万石の化粧料を与えられたといわれる。翌年の元和3年(1617年)、本多家が播磨姫路に移封になった時には8月28日に桑名を発って姫路城に移って播磨姫君と呼ばれるようになる。翌元和4年(1618年)には長女・勝姫(池田光政正室、池田綱政生母)、元和5年(1619年)には長男・幸千代が生まれた。しかし、元和7年(1621年)に幸千代が3歳で没したのを始め、寛永3年(1626年)には夫・忠刻、姑・熊姫、母・江が次々と没するなど不幸が続き、本多家を娘・勝姫と共に出ることとなった。江戸城に入り、出家して天樹院と号す[2]。出家後は娘と2人で竹橋御殿で暮らした[2]。寛永5年(1628年)に勝姫が父・秀忠の養女として池田光政の元へ嫁ぎ、一人暮らしとなる。池田家に嫁いだ一人娘のことを心配し、「天樹院書状」を送っている。寛永9年(1632年)、父・秀忠が薨去。寛永16年(1639年)、光政と勝姫の嫡男・池田綱政(千姫の外孫)が誕生した。寛永20年(1643年)、鎌倉の東慶寺の伽藍を再建する。正保元年(1644年)には家光の厄年を避けるために江戸城から移った弟・徳川家光の側室・夏(後の順性院)とその後生まれた家光の三男・綱重と暮らすようになる。このことで大奥で大きな権力を持つようになったとされる。寛文5年(1655年)の越前松平家(福井藩主・松平光通)の婚姻に関して、嫁側である越後高田藩の勝姫(千姫の妹、越後高田藩主松平光長の母)に依頼されて、幕府に対して介入を行った。明暦3年(1657年)の明暦の大火で竹橋の邸が焼失した時には、叔父の徳川頼宣(紀州藩主)の屋敷に一時寄留する。寛文6年(1666年)2月6日、江戸で死去。享年70[2]。亡くなった夜、曾祖母於大の方の菩提寺である小石川伝通院に納められ導師知鑑(知恩院37世)により葬儀が行なわれた。墓所は傳通院と茨城県常総市の天樹院弘経寺にあり、また徳川家(松平家)が三河時代から帰依していた浄土宗の総本山である京都の知恩院に定例により分骨され宝塔に納められた。知鑑は後に位牌や遺物を祭るため伊勢に「寂照寺」を開いた。戒名「天樹院殿栄譽源法松山禅定尼」。

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