『歴史の時々変遷』(全361回)307“大原騒動”
「大原騒動」江戸時代に飛騨国で発生した大規模な百姓一揆である。1771年(明和8年)から1788年(天明8年)までの18年間にわたり騒動が発生した。正確には、明和騒動、安永騒動、天明騒動の三つに分けられるが、その時の飛騨郡代の名をとり、大原騒動と総称する。「明和騒動」1765年(明和2年)12月 第12代飛騨代官(後の飛騨郡代)に大原彦四郎紹正が補任。1767年(明和4年)8月 飛州御用木元伐休山の内示があり、山方の村々に恐慌を来たす。1770年(明和8年) 阿多野(現・高山市高根町)・小坂(現・下呂市小坂町)両郷の村民総代が御用木元伐継続の嘆願のため江戸に赴く。春 飛州年貢米の内、3000石を江戸納めとする内示があったが郡中は食糧欠乏を理由として拒否し、この沙汰は取りやめとなる。9月 大原代官は、有徳の町人や百姓から御用金を借り上げ、それは村々の名主・組頭にまで及ぶ。秋 飛州北方・南方ともに、御用木元伐休山命令が出される。これは山方衆には死活問題であった。また、平地に住む農民も新たな税の取り方や多大な労働奉仕に不満を募らせていた。よって、阿多野・小坂両郷の村民総代は再び、嘆願のため江戸へ赴く。12月 大原代官は、現行の制度である石代金五箇所聞合は煩雑であるとの理由で永久石代定直段の願立を勧誘。さらに新役十箇条を定め、施行しようとする。また、高山町人丸屋平八が、一旦沙汰止めとなった飛州年貢米3000石江戸納めの願書を差出し、組頭福島屋五右衛門・年寄川上屋斉右衛門・屋貝屋権四郎がその奥印を押したとの風評が起きる。同月 石代定直段願立の可否と、新役十箇条に対する諾否の評議のため三郡村々の総集会を飛騨国分寺で開くが、村方三役以外の百姓も多数参加した。そのような中、総代として江戸へ赴いた大古井村伝十郎ら代表も来会し、前述の風評が事実であると報告したため、群衆の怒りは爆発することとなる。激怒した群衆たちは代官に協力した町人宅や土蔵の打ち壊しをする。大原代官は直ちに鎮圧を行い、54名を投獄し、伝十郎は死罪となった。また、労働奉仕は取りやめとなり、山方衆への救済制度(お救い米)が設けられた。


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