「平安京物語」54“後三年の役”「前九年の役」が沈静してから二十一年ご陸奥では再び不穏な動きが現れたのが永保三年(1083)の「後三年の役」である。

前九年の役も、後三年の役も紛争は複雑な人間関係から成り立ち主従と氏族内の関係に官職の任命と複雑に状況が変わる。出羽国の清原氏に対して、陸奥国の安倍氏の巨大な豪族の勢力図、後三年の役の変動を要約すれば清原氏嫡流真衡の養子成衡の婚儀に際し、真衡の傲慢な態度に激高した一族の吉彦秀武が挙兵した。これに異母弟家衡、家衡の異父兄の藤原清衡の親族が呼応した。背景は嫡流に地位強化にあって、一族の不満を買ったらしい。

家衡については前九年の変の後で武貞は安倍一門の藤原経清(敗戦後処刑)の妻を自らの妻としていた。この女の連れ子が武貞の養子となって清原清衡を名乗った。その後武貞と女との間に家衡が生まれた。この家衡こそ清原氏と安倍氏の惣領の血を引いた家衡である。

武貞の死後、清原氏の惣領を継いだのは真衡であったが継嗣に恵まれなかった。そこで真衡は海道小太郎(一説に平繁盛の子安忠)なる人物を養子に迎えた。これが成衡である。

ここに清原氏は桓武平家と縁戚関係を結んだことになった。

更に真衡は源氏との関係の構築を目論み永保三年(1083)常陸国から源頼義の娘の女性を迎えて成衡の嫁とした。この出自に関して頼義平国香の流れの平宗基の娘と一夜を共にして生まれた娘とされ、清原氏にとって常陸平氏、河内源氏の惣領の血を引く系統が生まれたことになる。一方、これに対して家衡は清原氏、安倍氏の血を引く家衡は清原氏から一歩嫡流から外れることになった。そんな折に起きた聖衡の婚礼で清原氏の長老的存在の吉彦秀武に祝いの席での無礼で婚礼の席に砂金をぶち撒いて帰ってしまった。これに怒った真衡は吉彦に軍を差し向けた。

一方吉彦は同じく真衡と不仲であった家衡に密使を送って連携することを申し入れ、これを知った真衡は戦いを起こし家均と藤原清衡討とうとした。二人は一旦戦いを避け退却し本拠地に帰って行った。真衡は戦わずして退却させたのに勢いに乗って吉彦を討つ用意の最中、源頼義の嫡男が源義家が陸奥守を拝命し赴任し歓迎の宴席で争いは中断した。

その後好機を見ては家衡と清衡は出羽に攻め入ったが、その内陸奥守の源義家が真衡に加勢したために、家衡、清衡は降伏をした。

しかし真衡が移動中に急死したために、その後は義家二人に真衡の所領、奥六郷を三郡づつ分け与えた。所がその配分を不服として家衡は清衡の館を攻めて妻子一族は殺され清衡は生き延びた。再び清衡は義家に救援を求め対抗した。

清衡と義家軍は家衡に攻め入ってこれを破った。

この陸奥での清原氏、安倍氏両氏入り乱れた戦いで、最後に勝利したのは清衡であった。

この戦い後清衡は旧清原氏の領地をすべて手に入れることになって、清衡は実父である藤原経清に復し奥州藤原氏となり、清原氏は消滅をした。

真衡★清原家衡(?~1087)陸奥の武将、武貞の子、母は安倍頼時の女、四郎と称した。木原氏の同族争いに端を発した後三年の役では、当初異父兄の清衡と結び、

(さねひら)の病死後は、陸奥守義家の支援を受けて清衡と戦った。出羽国の沼柵の戦いで勝利を収めたが、その後叔父武衡の援助で金沢柵に戦い翌年攻略され斬殺された。

★源義家(1039~1106)河内源氏。父は頼義、母は平直方の女、石清水八幡で元服し、八幡太郎と号す。前九年の役で父頼義に従って参戦し、乱の平定の功のよって出羽守になる、後三年の役に介入。義家の調停に反抗した豪族清原家衡・武衡を討ち清衡を助けたが、朝廷の停戦命令に従わず、この合戦は私的な戦いと見なされ恩賞もなかった。その後摂関家に近従したが弟の義綱と対立した反面比叡山の悪僧の取締に活躍した。嫡男

(よし)

(ちか)が九州で乱行で不祥事の最中死去した。

★藤原清衡(1056~1128)陸奥の武将、奥州藤原氏初代。父は陸奥権守藤原

(つね)

(きよ)、母は奥六郡の俘囚長安倍頼時の女。前九年の役で父は殺され、母は清原武貞に再婚をしたために、清原一族として成長した。後三年の役で真衡・家衡(異父母兄弟)が死んだ結果、清原一族の唯一の後継者になり、奥六郡・山北三郡を領有。その後「俘囚之上頭」の地位に付き南奥州にも勢力を伸ばし,白河院や摂関家と結び本姓藤原に改姓をした。

★清原真衡(?~1083)陸奥の武将、武貞の子、父と同様出羽国の奥六郡に勢力を拡大

し清原氏の最盛期を迎える。しかし独裁支配を行なった為に弟の清衡・家衡らの同属の反発を受けて、後三年の役では真衡側には不利だった。義家の支援を受けるが陣中で病死をした。

覇権※陸奥地方の

(はけん)を廻り、複雑な家督争いに、俘囚の民の中に土着をした清原氏、安倍氏は平氏、源氏の血脈を我氏族に入れ込まんとして、その威光と正統性を主張する手法に、家督争いに奔走(ほんそう)して来たが、都より源義家の陸奥守の軍門に下ったが、その陸奥を平定した源義家も京の朝廷からはその功を認められず、単なる私戦と決めつけられ再三の論功(ろんこう)行賞(こうしょう)は得られず、受領功過定は退けられた。また新たな官職にもつけず、その後十年間に渡って受領功過定を請求し続けた。結果、坂東から参集した武士たちには私有財から払わなければならず、これが返って河内源氏の鎌倉幕府への基盤作りの基礎を成したと言う。この清衡の勝利によって奥州藤原の基礎が築かれた。