「平安京物語」50“平忠常の乱”東国で将門の乱から一世紀近く経って、万寿五年(1028)上総権介平忠常が安房守

(これ)県犬養忠の館を襲撃して惟忠を焼き殺し、続いて忠常は上総国の国衙を占拠してしまう。上野介

(あがたいぬかい)

(ため)

(まさ)の館を占拠して受領を軟禁した。

県犬養爲政の妻子が都に逃れ、これを見て上総国の民は忠常に加担し反乱は房総三国に広まった。これは上総の「国人」「州民」が受領の妻子の帰京に反発をして起きた事態だった。

上総この事件は広範な在官人などが参加し凶党の蜂起であった。これを平忠常が住国上総を越えて反受領の指揮をしたのは

(かずさ)下総

(しもうさ)安房

(あわ)など数カ国に広まっていた。

坂東諸国は将門の乱以来荒廃し、受領たちの使命は公田の復興、荒廃公田の再開発に反発をしたのは国衙役人や在庁官人・田堵(平安時代の荘園を荘田や公田を経営し年貢・公事を納付する農民)らの反発を吸収し平忠常が蜂起した。

しかし平忠常は朝廷に敵対する意思はなかったと思われる。蜂起をしたものの何らかの妥協案を模索し朝廷の出方を見守っていた。

一方平忠常の蜂起の知らせを聞いた朝廷は驚き、直ちに追補の決断、公卿たちの会議で伊勢前司源頼信を推挙、受領としての実績と、武勇の名声、行動の慎重さが公卿たちの信頼を得ていたのだろう。所が後で一条天皇の追討の勅定によって検非違使の検非違使平直方であった。追討次官に中原成通に任じられ、多数の公卿を抑え変更されたか、追討には二派の意向が働いた。関白頼通の強い働きかけ、もう一つは政界の長老右大臣実資の意向、二人は一応協調関係であった。

実資が天皇、頼通、が直方を指しそれを同意して勅定となった。

こうして追討に任命された平直方・中原成通は国衙指揮(地方の国の役人)・兵糧米徴収権等九か条に及ぶ権限の付与を求めた。

夷灊山それに対して実資は申請項目を短く三箇条に短縮することを求めた。こう言った申請には自分も私腹を肥やせる機会とみて好条件を引き出そうとしたからである。それを熟知をしていた実資は権限を抑制したのである。実資の指示を拒んだ成通と、指示に従った直方は不和となって、成通は母の病状を理由に追討使の返上をした。この間に平忠常の複数の密使が宮廷工作に密書を持って入京した。検非違使の尋問に密使は、忠常は二、三〇騎程の兵力で山の届けて欲しいと言った。

(いしみやま)に立て籠もっている情報を得た。またその密使は忠常が籠る夷

朝廷側は交渉などする気が無く、それに対して『小右記』には追討の成通と直方は二百人の随兵を引き連れて熱狂の中、坂東に向かった。また成功すれ英雄の内に熱狂的に迎えられるはずだった。

維衡朝廷は同時に追討軍の支援の手立てを打った。上総介に直方の父維時、武蔵守に平公雅の孫致方、甲府守に支援されるべく候補の頼信、安房守に

(これひら)の子平公雅とそうそうたる陣営である。

二度目の追討に直方軍は房総三カ国で激しく戦ったが、なかなか決着がつかなく直方は更迭が決まった。立て籠もった平忠常は消息が分からなくなって出家をしたとか噂が流れ、人伝に直方に「志」の贈り物送ってくる始末、おまけに坂東の有力武士たちは追討官符にも応じず、その間平忠常は夷山に籠って神出鬼没で追討軍をほんろうした。

二年間合戦らしい合戦をせず、坂東の追討の為に公田は荒廃し、兵糧米は底をつき疲弊をして行った。平忠常の蜂起勃発後、三年にして改めて長元三年(1030)甲斐守源頼信が追討使に任命された。追討に赴いた頼信は忠常の子息法師を使者を立て粘り強く説得をした。そこで忠常は四則法師ともなって甲斐の頼信の許に来て降伏し、名簿を捧げて従者になる事を誓いった。

忠常は上洛する途中で重病になり、美濃国で死去した。頼信は国衙に検視をさせて、首を切り忠常の従者に持たせて入京させた。

この乱の処理に朝廷は頼信に恩賞を与え、常昌らの追討の赦免を決定された。

★平忠常(?~1031)葛原親王の曾孫村岡五郎平良文を祖父に、陸奥介忠頼を父とする。下総に多くの領地を所有、上総介、武蔵国押領使となって勢力を上総・下総・安房に伸ばした。藤原教通の従者に、平頼義の家人となるが国衙に敵対し、安房国司を殺害、追討使平直方と三年間戦った。その後頼義の追討に降伏し護送の途中で病死をした。子孫は処罰を受けず千葉氏・上総氏として繁栄をした。

右衛門尉★平直方(生没年月日不詳)惟時の子、摂関家の家人として武力を担う。桓武平氏北条流、上総介、従五位上・検非違使

(うえもんじょう)、平忠常の追討使に任じられた、三年に渡る忠常との戦いに激しい抵抗に遭い鎮圧が出来ず更迭された。変わって忠常を鎮圧した源頼信の子、頼義を婿とし、東国経営の拠点の鎌倉を譲る。義家の外孫にあたる。

※平忠常の乱は上総・下総・安房の国々の国衙への不満と将門の乱から荒廃し統制の執れない事態に、国衙役人の妻子が京に逃れようとしたことに端を発した。不満は国人、洲民から農民や荘園に従事する者から官庁官人までの不満を吸収した忠常は遂に蜂起をした。

当初事の次第によっては妥協し事の治まることを模索していたが、この事態に朝廷は忠常の反乱と決めて追討使に平直方を派遣した所が、平直方を派遣しても成果が上がらず、逆に坂東武士の反目に遭い協力が得有られず、更迭をさせられた。

次に派遣されたのは甲斐国源頼信であった。頼信は粘り強く説得した結果、降伏に応じた。忠常は京に護送される途中尾張で病死をした。

奥州経営は土着の民、俘囚の民から豪族の意向を無視しては統治はできないことを思い知らされた。