「平安京物語」41“浄土思想の学僧「源信」”また平安時代に起きた現象には末法思想があって、この世の終わり、刹那観、厭世観が蔓延し無気力な世情が広まって行った。特に都では度重なる疫病や飢饉で人口が減少するほどに打撃を受けた。
特に平安時代丁度末法の時代に当り、飢饉、疫病などで人口が減少するほどの悪影響を受けた。しかも異変が続き火災や地震などは菅原道真の祟り、怨念によるものとして恐れられた。
末法思想とは、仏教的止観。釈迦の滅後に、正法・像法・末法と時代が下がるごとに釈迦の法力が伝わらず、像法の時代には証が欠け、末法の時代には行証がなくなって最後が滅法の時代になる。釈迦滅後の正・像二千後として、1052年入末法説で末法第一年、末法思想が流行をした。末法思想はすでに八世紀から僧侶の間で意識されていたが、社会階層に危機意識として定着するのは平安中期・後期である。
そんな時代に阿弥陀信仰は釈迦の世界観とは一別し、極楽浄土によって人々は救済される教えが一層朝野の境が無く普及したのであろう。
阿弥陀仏の来世利益で往生できる安心感で、念仏が大衆まで普及していった感がある。
法然・親鸞は末法思想を根拠に旧仏教による自力の悟りを否定専修念仏を唱えた。末法思想が浄土宗を広める要因の一つになった。
現代日本の仏教の宗派勢力で阿弥陀信仰が全体の四割はあると言われている。
その浄土思想の確立した高僧こそ「源信」である。
それまで阿弥陀信仰は念仏不況の空也や良源、そして天台で源信に影響を与えた良源から源信、源信から源空(法然)そして親鸞や一遍へと阿弥陀信仰が引き継がれていったが、学僧として浄土教、浄土思想へと確立していった箸書こそ『往生(おうじょう)要集(ようしゅう)』であった。
源信は浄土宗の基礎を築き後世に大きな影響を与えた。大和国は当麻郷生まれ、父は卜部正親、母は清原氏。七歳にして父と死別し、九歳にして比叡山の上がり良源に師事した。
顕蜜二教を極め、論に優れ三十七歳の時、叡山の広学竪義(法華経講義の討論会)の論者代表に選ばれた。その後、学匠として多くの著を署し、名声を高めた。もっぱら横川に隠棲し、世俗にまみれて貴族化した比叡山の教団に批判的であった。
源信は比叡山横川中心に念仏結社の運動を始めた。
永観二年(984)源信の代表著書『往生要集』の執筆を始め、翌年に完成をした。
この『往生要集』三巻は浄土教の発展に寄与し、藤原道長・行成もこの書を読んでいたと言う。
日本の仏教で仏・菩薩の清浄な国土の往生する事を求める信仰。その浸透は仏教的未来観の日本社会への定着過程を示す。
阿弥陀仏の極楽浄土、弥勒菩薩の兜率天、観音の補陀落山、釈迦の霊山浄土などがあるが、当初は弥勒度浄土信仰が優勢であったが、奈良後期より阿弥陀信仰が優勢に普及最も広く信仰された。平安時代に疫病の流行から死者の往生を求め追善供養中心であった。
九世紀後半になって地獄・極楽観が貴族社会に浸透し、自己の極楽浄土願生(がんじょう)が盛んになり、逆修(ぎゃくしょう)や臨終出家が登場する。
そんな時に源信の『往生要集』の影響もあって、十世紀後半には貴族社会に現世(げんせ)安穏(あんのん)・来世極楽往生の信仰が定着をした。
往生講・菩提講・迎講などの法会や浄土信仰に基づく造寺。造仏像が盛んに行われ、臨終に来迎を求める風潮が広まった。
天台の源信を始め・覚運と南都の三論宗の永観、真言の覚鑁などの浄土思想家が誕生し、一方空也をはじめとする「聖」の活動によって多様な浄土信仰が広まった。
院政時代にも貴族、公家にも深く浸透し、藤原道長や藤原行成・藤原宗忠・源義光が読むのを憒いとした。
★源信(942~1017)平安中期の天台宗学僧。生れは大和国葛城下郡出身。延暦寺で出家し、良源に師事した、学際の誉れ高く、名利を嫌って横川の恵心院に隠棲生活を送る、修行と勉学と著述に専念し、そのために恵心僧都に任じられた。翌年には辞退し。その学問は因明・倶舎学から天台教学まで幅広く、浄土信仰を持って知られる。
著書には多くの貴重な文献が残されていている。主著の『往生要集』が代表的著書で浄土教を体系化したことで有名である。もう一つの主著『一乗要決』において、最澄以来の課題であった天台の一乗説を集大成した点も重要である。
★源空(法然(1133~1212)浄土宗の開祖。古代史の末期に生まれた。諡号(しごう)は源空。円光大師・父は美作(みまさか)国(こく)久米郡押領使の漆間時国、母は秦(はた)氏(し)。九歳の時に夜討ちで父を亡くし、菩提寺の観覚のもとに預けられた。
十五歳で比叡山に登って持法房原源光に、功徳院皇円に師事し天台三部経を学ぶ、十八歳にして遁世室に入り、西塔黒谷の別所の叡(えい)空(くう)に室に入った。
叡空は融通念仏宗の良忍の弟子に浄土宗の影響を受け、その後円頓菩薩戒を伝授した。
この時期に法然房源空と称した。やがて源信の『往生要集』が末代の道俗に念仏を勧め、その行相について道綽・善導の著書に導かれ、余行を捨てて専修念仏に至った。その後主署の『選択本願念仏集』を完成させた。
★親鸞(1173~1262)鎌倉時代の僧。浄土真宗の祖。名は始め綽空と名乗り、坊号は善信、明治九年に見真大師の号を与えられる。日野氏の生まれ、九歳にして慈円の坊舎に学び、比叡山で常行三昧堂の堂僧を務め、二十九歳にして迷い山を下り京都六角堂に参篭を試み念仏を歩むことになる。
聖徳太子の夢告を得て法然の門下生になる。念仏集の弾圧で越後に流される。五年後赦免されるが京都には帰らず関東に移る。
その後二十年に渡り関東地方常陸の国は稲田に拠点として活動をする。その後信者は増え続け、その地域に集団を形成、その間『教行信証』を著した。
文暦元年(1234)に京都に帰り五条西洞院に住み、子の善鸞が親鸞の教えに従わず、関東の弟子たちに書簡を送り縁を切った。その後は九十歳まで奇瑞もない暮らし過ごし没した。
◆『往生要集』浄土教の理論書。源信著。三巻からなっていて、本書は全体に厭離穢土・欣求浄土・極楽証拠・正修念仏・助念方法・別時念仏・念仏利益・念仏証拠・往生諸行・問答料簡の十門から成っている。
◆弥勒信仰は弥勒菩薩に対する信仰、死後に、弥勒が説法をしている兜率天に往生したいと望む上生信仰。釈迦の没後56億7000万年後に弥勒がこの娑婆世界に下生三度説法をして衆生を救済をする。 こう言った考えはインドから中国に伝わり、北魏の則天武后によって盛んになり、奈良時代には上生信仰が盛んになったが、その後阿弥陀信仰の普及で下火となった。</span>