「平安京物語」37“安和(あんな)の変”安和二年(969)左大臣源高明が左遷された政変である。藤原頂点の権勢は他の氏への排斥がこの事件が最後になった。康保四年(967)村上天皇が亡くなって、東宮(皇太子)・憲(のり)平(ひら)親王(冷泉天皇)が即位し太政大臣に藤原実頼、左大臣に源高明、右大臣に藤原師尹(もろただ)が就任した。即位した冷泉天皇は病弱であったために早急に東宮を定めなければならなかった。候補に二人、冷泉天皇の異母弟の為平親王と守平親王であった。通常考えられるのは兄の為平親王であるが実際には年下の守平親王であった。爲(ため)平(ひら)親王の妃は高明の娘だった。高明の外戚を警戒した藤原一族の策略で高明は陥れられた。安和二年事件は突如起こった。左馬助源満仲・前武蔵介善時が中務少輔橘繁延・左兵衛大尉源連(つらめ)らの謀反を密告した。
この報を受けて右大臣藤原師伊以下の参議が公卿は参内し協議に入った。そして素早くこの密告書を関白実頼に送り、検非違使を送るように手配し、橘繁延や連茂と言う僧侶、元相模介藤原千晴とその子らを捕えて訊問に入った。高明はこの決定が下れる直前に長男と共に出家し京に留まる事を願い出たが、元より変更されることなく予定通りに、藤原千晴らが訊問され、翌日高明は大宰府師に左遷され、かわって師伊が左大臣になり、その後千晴が隠岐に流され、その密告の詳細は分ってはいない。高明の娘は守平親王の兄爲平親王に嫁いでおり、醍醐天皇の皇子で評価の高い高明の失脚狙って仕組んだ陰謀と思えわれている。密告をし、賞した満仲・善時二人は位が進められた。少し経って橘連延は土佐に流され、藤原千晴は佐渡に流す命が下り、源連・平貞節の追討が五畿七道に下された。以上菅原道真同様に嫌疑の内容は明確にされずに左遷、流罪が下された。こう言った仕組まれた陰謀は次期天皇の候補の追い落としで、自分の方の皇継を有利に成せる手立てを工作したのは平安時代の摂関の時代には露骨に仕組まれ、左遷や流罪をさせてわが身の安泰を工夫するものである。それも天皇の代替わりに起きやすい。また正体不明の不審な者の存在が二、三人いるが、首謀者として源連と言う人物は嵯峨源氏で叔母が高明の母で、妹が高明に嫁いでいる二重の縁故に当る。
こう言った陰謀に巻き込まれた場合、身内が連座して闇に着き落とされるので利点と欠点とがあって、身内の不祥事で奈落の底に突き落とされ、また身内に出世、皇位の関係者になれば恩恵は計り知れないで両刃の件である。運不運が付きまとうのは摂関と言う強権職席が故にある。
首謀者とされる、藤原千春の処遇に対して、将門の乱に功績を立てて東国に強大な勢力を蓄えた藤原秀郷の子で、朝廷でも千春の処分については下野国の秀郷一党の動揺を懸念したようである。この事件の裏で糸を引き、次期の権力者の地盤造りか藤原師(もろ)輔(すけ)の子伊尹・兼通・兼家らが考えられる。高明は醍醐天皇系の源氏から降下して臣籍で左大臣として朝廷を支えるに一番邪魔なのは女御として差し出し皇子の出産を待ち望み、外祖父として藤原家北家一族の有力摂関候補の血脈の陰謀に高明は犠牲になったと言えよう。悲劇の源高明は左遷されてから一週間後、西宮邸は全焼し、燃え盛る様は高明の身そのものを象徴するようであった。
大宰府に二年余り赦免に受け、三年後に帰京し葛野に隠遁(いんとん)し六十九歳の生涯を終えた。彼の出世、境遇、才能は源氏物語のモデルとも言われている。この云われなき陰謀の犠牲を最後に藤原一族の他氏排斥の運動は終わりを告げた。
※源高明は摂関家の以外の源氏で次期天皇の皇子の母は高明の娘では外戚で藤原家にとって脅威であった。それの阻止にはあらゆる手段を使ってでも防がなければ藤原家の危機意識があったようである。天皇に誰の母の皇子を立てるかによって、権力の浮き沈みがある。
女御に出しても皇子が生まれなければ外戚にならない。運と布石と強固で推挙が必要である。
★源高明(914~982)醍醐天皇の皇子。母は更科源周子(しゅうし)延喜二十年に源氏に賜姓され、中納言から右大臣になり、更に左大臣に、その間に藤原師輔の女、二人を妻にして、師輔との婚姻関係を結び、村上天皇没後に高明が師輔の女の安子所生の為平親王の妻の父であることから警戒され、爲平親王擁立の陰謀と疑念を持たれ大宰府に左遷され、その後帰京を許されたが、再び世に出ることはなかった。(高明についての人物は、源氏物語のモデルと言われた)
★藤原師尹(920~969)小一乗左大臣とも呼ばれ、関白忠平の五男、母は源能有の女、安和の変で左大臣源高明を大宰府に左遷し後任に左大臣に就く。
★藤原実頼(900~970)公卿。小野宮惟喬親王の邸宅に住した爲に、小野宮大臣と呼ばれ、小野宮家の祖となる。藤原忠平の長子。母は源順子。播磨守、蔵(くら)人頭(うどとう)を経て参議にになって、父藤原忠平が関白太政大臣に、左大臣大将に実頼になって父子が廟堂を掌握をする。
父関白忠平が没後、氏長者になり冷泉天皇が即位すると関白に、ついに太政大臣になり円融天皇の摂政となった。
★源満仲(912~997)平安中期の武将。多田源氏の祖で多田満仲を称し、出家して満慶、清和源氏の経基の子。安和の変で発端となった陰謀を密告して従五位下に叙され、藤原兼家・道長と言った摂関家に接近し臣従するようになる。
越前守・武蔵守・摂津守を歴任し、一条天皇時代に優れた武士五人の筆頭に数えられた。
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