「平安京物語」34“藤原純友の乱”承平天慶の頃、瀬戸内海では海賊による被害が頻発していた。従七位下伊予掾の藤原純友は海賊の討伐に当たっていたが、承平6年(936年)頃には伊予国日振島を根拠に1000艘を組織する海賊の頭目となっていたとされる。しかし最近の研究では、純友が鎮圧の任に当たった海賊と、乱を起こした純友らの武装勢力の性格が異なっていることが指摘されている。純友が武芸と説得によって鎮圧した海賊は朝廷の機構改革で人員削減された瀬戸内海一帯の富豪層出身の舎人たちが、税収の既得権を主張して運京租税の奪取を図っていたものであった。それに対して純友らの武装勢力は、海賊鎮圧後も治安維持のために土着させられていた、武芸に巧みな中級官人層であり、彼らは親の世代の早世などによって保持する位階の上昇の機会を逸して京の貴族社会から脱落し、武功の勲功認定によって失地回復を図っていた者達であった。つまり、東国などの初期世代の武士とほぼ同じ立場の者達だったのである。しかし彼らは、自らの勲功がより高位の受領クラスの下級貴族に横取りされたり、それどころか受領として地方に赴任する彼らの搾取の対象となったりしたことで、任国の受領支配に不満を募らせていったのである。また、純友の父の従兄弟にあたる藤原元名が承平2年から5年にかけて伊予守であったという事実に注目されている。純友はこの元名の代行として現地に派遣されて運京租税の任にあたるうちに富豪層出身の舎人ら海賊勢力と関係を結んだとされている。天慶2年(939年)12月、純友は部下の藤原文元に備前介藤原子高と播磨介島田惟幹を摂津国須岐駅にて襲撃させた。ちょうど、東国で平将門が謀反を起こし新皇を称したとの報告が京にもたらされており、朝廷は驚愕し、将門と純友が東西で共謀して謀反を起こしたのではないかと恐れた。朝廷は天慶3年(940年)1月16日小野好古を山陽道追捕使、源経基を次官に任じるとともに、30日には純友の懐柔をはかり、従五位下を授け、とりあえずは兵力を東国に集中させた。純友はこれを受けたが、両端を持して海賊行為はやめなかった。2月5日、純友は淡路国の兵器庫を襲撃して兵器を奪っている。この頃、京の各所で放火が頻発し、小野好古は「純友は舟に乗り、漕ぎ上りつつある(京に向かっている)」と報告している。朝廷は純友が京を襲撃するのではないかと恐れて宮廷の14門に兵を配備して2月22日には藤原慶幸が山城の入り口である山崎に派遣して警備を強化するが、26日には山崎が謎の放火によって焼き払われた。なお、この一連の事件と純友との関係について純友軍の幹部に前山城掾藤原三辰がいる事や先の藤原子高襲撃事件などから、実は純友の勢力は瀬戸内海のみならず平安京周辺から摂津国にかけてのいわゆる「盗賊」と呼ばれている武装した不満分子にも浸透しており、京への直接的脅威と言う点では、極めて深刻な状況であったのではとする見方もある。2月25日、将門討滅の報告が京にもたらされる。この報に動揺したのか、純友は日振島に船を返した。その影響か6月には大宰府から解状と高麗からの牒が無事に届けられ、7月には左大臣藤原仲平が呉越に対して使者を派遣している。だが、東国の将門が滅亡したことにより、兵力の西国への集中が可能となったため、朝廷は純友討伐に積極的になった。5月に将門討伐に向かった東征軍が帰京すると、6月に藤原文元を藤原子高襲撃犯と断定して追討令が出された。これは将門討伐の成功によって純友鎮圧の自信を深めた朝廷が純友を挑発して彼に対して文元を引き渡して朝廷に従うか、それとも朝敵として討伐されるかの二者択一を迫るものであった。8月、純友は400艘で出撃して伊予国、讃岐国を襲って放火。備前国、備後国の兵船100余艘を焼いた。更に長門国を襲撃して官物を略奪した。10月、大宰府と追捕使の兵が、純友軍と戦い敗れている。11月、周防国の鋳銭司を襲い焼いている。12月、土佐国幡多郡を襲撃。天慶4年(941年)2月、純友軍の幹部藤原恒利が朝廷軍に降り、朝廷軍は純友の本拠日振島を攻め、これを破った。純友軍は西に逃れ、大宰府を攻撃して占領する。純友の弟の藤原純乗は、柳川に侵攻するが、大宰権帥の橘公頼の軍に蒲池で敗れる。5月、小野好古率いる官軍が九州に到着。好古は陸路から、大蔵春実は海路から攻撃した。純友は大宰府を焼いて博多湾で大蔵春実率いる官軍を迎え撃った。激戦の末に純友軍は大敗、800余艘が官軍に奪われた。純友は小舟に乗って伊予に逃れた。同年6月、純友は伊予に潜伏しているところを警固使橘遠保に捕らえられ、獄中で没した。京で朝廷に中級官人として出仕していた青年時代の平将門と藤原純友は、或る日、比叡山に登り平安京を見下ろした。二人はともに乱を起こして都を奪い、将門は桓武天皇の子孫だから天皇になり、純友は藤原氏だから関白になろうと約束したとする伝説が世に知られている。また、比叡山上には、この伝説にちなんだ「将門岩」も存在し、そこには将門の無念の形相が浮かび出るという伝承までがなされている。当時の公卿の日記にも同時期に起きた二つの乱について「謀を合わせ心を通じて」と記されており、当時、両者の共同謀議がかなり疑われていたようである。実際には、両者の共同謀議の痕跡はなく、むしろ自らの地位向上を目指しているうちに武装蜂起に追い込まれてしまった色合いが強い。二つの乱はたまたま同時期に起こり、東国で将門が叛乱を起こし、純友は西国で蜂起に至ったと考えられる。その一方で、将門に襲撃されて国司の印を奪われて逃げ出した上野介藤原尚範は純友の叔父(父親の実弟)にあたる人物である。このため、先行した将門の動きが尚範の親族であった純友に何らかの心理的影響を与えた可能性までは否定できないという考えもある。
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