『戦国時代の群像』181(全192回)松平信吉(1580~1620)安土桃山時代から江戸時代初期の武将、大名。藤井松平家第3代当主。なお、生年については天正3年(1575年)説もあるが、同年当時に生母・多劫姫は松平忠正(父・忠吉の兄)の正室であった時期にあたり、辻褄が合わないので、天正3年説の場合は忠吉の庶子である可能性が出てくる。松平忠吉の長男ではあったが、忠吉はその兄である忠正が没し、その遺児家広(生母は信吉と同じ徳川家康の異父妹・多劫姫であるため、異父兄にもあたる)が成人するまでの中継ぎであり、その父も天正10年(1582年)には死亡している。更に母もその後保科正直と再婚しているため、不遇な少年時代を過ごした。ところが、同じ松平氏一族の藤井松平家の信一が子供に恵まれなかったために、主君・家康の甥にあたる信吉が養子に迎えられることになった。関ヶ原の戦い後の慶長6年(1601年)、養父・信一は結城秀康の越前移封に伴いその支城であった土浦城4万石に封じられ、続いて翌年には江戸崎藩の蘆名盛重が実家の佐竹氏に連座して出羽角館城に移されたために、信吉は養父の名代として江戸崎藩の事後処理にあたった。慶長8年(1603年)には安房守に叙任される。この年に養父が隠居して翌年に家督相続が認められて土浦藩主となる。土浦城を改築して水戸街道を城下に引き入れるなど領内整備を行いながら、並行して2度の大坂の陣にも嫡男・忠国とともに出陣している。だが、元和3年8月(1617年)に5万石をもって高崎城に転封され、続いて翌々年の元和5年(1619年)10月には更に篠山城に移されて伊豆守に転じる。こうした度重なる転封によって元々病弱であった信吉は体調を崩し、篠山移封の翌年に京都の藩邸にて病死した。享年41歳。長男・忠国の家系は山城守を世襲し、次男・忠晴の家系は、伊賀守を世襲した。このため藤井松平家は2流に分かれることとなった。伊賀守家は老中を多数輩出している
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