『歴史の時々変遷』(全361回)252“最上騒動“「最上騒動」江戸時代前期に起こった出羽山形藩の最上氏によるお家騒動である。出羽最上家の第11代当主にして、山形藩の初代藩主である最上義光の晩年頃から、最上家では後継者をめぐっての暗闘が繰り広げられるようになった。義光には長男に最上義康があり、本来なら彼が家督を継ぐのが筋であった。しかし義光がこの長男と不和になっていたこと、次男の最上家親が徳川家康・徳川秀忠らに近侍して江戸幕府と親しい関係にあったことから、御家存続のために義光は家親に家督を譲ろうと画策する。そして慶長16年(1611)、義康が何者かによって暗殺されたのである(義光の謀殺ともされるが、家臣の単独犯行説もあり、真相は未だ不明)。ところが、後に義光は義康が和解を図っていたことを知って後悔するようになり、失意のうちに病に倒れた義光は慶長19年(1614)に死去した。義光の死後、最上家の家督は次男の家親が相続し、最上氏第12代当主・山形藩の第2代藩主となった。家親は江戸幕府との関係を強化するため、大坂冬の陣が始まると、家臣・一栗高春が担ぎ出す気配があり、さらには豊臣氏と親密な関係にあった弟・清水義親を誅殺する。そして大坂冬・夏の陣では江戸城留守居役を務めて徳川氏への忠誠を示した。ところが家親は元和3年(1617)に急死する。37歳で江戸で急死した家親の死因には、「猿楽を見ながら頓死す。人みなこれをあやしむ」(徳川実紀)とあるように毒殺説も有力である。家親の死後、最上家の家督はその1人息子であった最上義俊が継いで最上家第13代当主・山形藩の第3代藩主となった。しかし義俊は若年であったために、重要な決定は幕府に裁断を求めることが取り決められた。義俊は若年で指導力が発揮できず、さらに凡庸で文弱に溺れたとされている。このような藩主に不満を持った最上家臣団は、義俊を廃して義光の4男・山野辺義忠を擁立しようと画策する一派と、義俊をあくまで擁護しようという一派に分裂して激しい内紛を引き起こした。元和8年(1622)、義光の甥にあたる松根光広が老中酒井忠世に「家親の死は楯岡光直の犯行による毒殺である」と訴え出た。忠世は訴えに基づいて楯岡を調べたが証拠はなく、松根は立花氏にお預けとなった。騒動を重く見た幕府は奉行の島田利正と米津田政を使者にして、一旦最上領を収公し義俊には新たに6万石を与え、義俊成長の後に本領に還すという決定を下した。しかし山野辺義忠と鮭延秀綱は納得せず、「松根のような家臣を重用する義俊をもり立てていくことは出来ない」と言上した。 しかし既に土井利勝は最上家改易の方針を抱いており、両者がこのことを南光坊天海に採決をあおいだところ、天海は改易を支持した。結果として山野辺派は敗北してしまった。このため幕府の態度は硬化し、元和8年(1622)、山形藩最上家57万石は改易を命じられた。ただし義俊には新たに近江大森で1万石の所領を与えられ、最上家の存続だけは許された。なおこの後、最上家から山形城を受け取る使者となった老中本多正純は、山形に赴く最中に処分され、後に改易された(宇都宮城釣天井事件)。大森に移った最上家は義俊の死後、跡を継いだ義智が幼少のために5,000石に減知され、以降子孫は交代寄合として続いた。山野辺義忠は備前岡山藩主・池田忠雄のもとに追放されたが、家臣十数名を召し抱えたままの隠居であった。12年後の寛永10年(1633)に赦免され、幕命により常陸水戸藩初代藩主の徳川頼房の元に派遣された。頼房は義忠に1万石と家老職を与え、後には第二代藩主徳川光圀(水戸黄門)の教育係も務めている。以降山野辺家は代々家老職を務めた。幕末になると助川海防城の普請が水戸徳川家を挙げて行われ、幕府には海防のための屋敷構えをする名目で許可されたものである。築城と同時に、執政兼海防掛の山野辺義観(よしみ)の家督相続と家老就任が命じられ、知行地1万石の引替えと共に助川村への屋敷構居住が発令されている。楯岡光直は肥後国熊本藩細川家に預けられ、その子の代に肥後藩に召し抱えられ、家老職となった。上記の山野辺家が義忠の子の代に後継者がなく、この楯岡家から養子が迎えられて以降を相続している。松根光広の子孫は伊予宇和島藩伊達氏の家老として続いた。幕末には伊達宗城を補佐した松根図書が出ている。また夏目漱石の弟子として知られる俳人松根東洋城は図書の孫に当たる。