「真言宗十八本山」教王護国寺・東寺・仏教寺院。真言宗の根本道場であり、東寺真言宗の総本山でもある。
本尊は薬師如来。東寺は平安京鎮護のための官寺として建立が始められた後、嵯峨天皇より空海に下賜され、真言密教の根本道場として栄えた。
中世以降の東寺は弘法大師に対する信仰の高まりとともに「お大師様の寺」として庶民の信仰を集めるようになり、二十一世紀の今日も京都の代表的な名所として存続している。
この寺には「東寺」および「教王護国寺」という二つの名称がある。八世紀末、平安京の正門にあたる羅城門の東西に「東寺」と「西寺」という二つの寺院の建立が計画された。
これら二つの寺院は、それぞれ平安京の左京と右京を守る王城鎮護の寺、さらには東国と西国とを守る国家鎮護の寺という意味合いを持った官立寺院であった。
南北朝時代に成立した、東寺の記録書『東宝記』によれば、東寺は平安京遷都後まもない延暦十五年(796年)、藤原伊勢人が造寺長官となって建立したという。
藤原伊勢人については、公式の史書や系譜にはその名が見えないことから、実在を疑問視する向きもあるが、東寺では古くからこの796年を創建の年としている。
それから二十数年後の弘仁十四年(823年)、真言宗の宗祖である空海(弘法大師)は、嵯峨天皇から東寺を給預された。
この時から東寺は国家鎮護の寺院であるとともに、真言密教の根本道場となった。東寺は平安後期には一時期衰退するが、鎌倉時代からは弘法大師信仰の高まりとともに「お大師様の寺」として、皇族から庶民まで広く信仰を集めるようになる。
中でも空海に深く帰依したのは後白河法皇の皇女である宣陽門院であった。宣陽門院は霊夢のお告げに従い、東寺に莫大な荘園を寄進した。中世以後の東寺は後宇多天皇・後醍醐天皇・足利尊氏など、多くの貴顕や為政者の援助を受けて栄えた。
文明十八年(1486年)の火災で主要堂塔のほとんどを失うが、豊臣家・徳川家などの援助により、金堂・五重塔などが再建されている。
何度かの火災を経て、東寺には創建当時の建物は残っていないが、南大門・金堂・講堂・食堂(じきどう)が南から北へ一直線に整然と並ぶ伽藍配置や、各建物の規模は平安時代のままである。