“日本名僧・高僧伝”99・隠元隆琦(いんげんりゅうき、特として大光普照国師、仏慈広鑑国師、径山首出国師、覚性円明国師、勅賜として真空大師、華光大師、万暦20年・文禄元年11月4159212月7〉 - 寛文134月316735月19〉)は、初の禅宗福建省福州福清県の生まれで、その俗姓は林である。隠元自身は臨済正宗と称していたが、独特の威儀を持ち、禅とさまざまな教えを兼ね併せる当時の「禅浄双修」の念仏禅や、「禅密双修」の陀羅尼禅を特徴とする明朝の禅である「明禅」を日本に伝えた。また、道者超元と共に当時の禅宗界に多大な影響を与え、江戸時代における臨済曹洞の二宗の戒律復興運動等にも大きな貢献をした。なお、明代の書をはじめとして当時の中国における文化や文物をも伝え、隠元豆の名称に名を残し、日本における煎茶道の開祖ともされる。1592年、福建省福州府福清県万安郷霊得里東林に生まれる。俗名は林曽炳。10歳で仏教に発心する(16歳という説もあり)が、出家修道は母に許されなかった。21歳の時に消息不明の父を浙江に捜したが果たせなかった。23歳の時、普陀山(浙江省)の潮音洞主のもとに参じ、在俗信者でありながら1年ほど茶頭として奉仕した。29歳で、生地である福清の古刹で、黄檗希運も住した黄檗山萬福寺鑑源興寿の下で得度した。33歳の時、金粟山広慧寺で密雲円悟に参禅し、密雲が萬福寺に晋山するに際して、これに随行した。35歳で大悟した。38歳の時、密雲は弟子の費隠通容に萬福寺を継席して退山したが、隠元はそのまま萬福寺に残り、45歳で費隠に嗣法した。その後、萬福寺を出て獅子巌で修行していたが、費隠が退席した後の黄檗山の住持に招請されることとなり、明崇禎10年(1637)に晋山した。後に退席したが、明末清初の動乱が福建省にも及ぶ中、順治3年(1646)に再度晋山した。江戸時代初期、長崎唐人寺であった崇福寺の住持に空席が生じたことから、先に渡日していた興福寺住持の逸然性融が、隠元を日本に招請した。当初、隠元は弟子の也嬾性圭を派遣したが、途中船が座礁して客死したため、やむなく自ら良静・良徤・独痴・ 大眉・独言・良演・惟一・無上・南源独吼ら二十人ほどの弟子を率いて、鄭成功が仕立てた船に乗り、承応3年(16547月5夜に長崎へ来港した。月洲筆「普照国師来朝之図」にこのときの模様が残されている。なお、隠元に随行した弟子のうち、良静ら十弟子は翌年に帰国したが、十弟子が日本に留まり大眉・南源・独吼は日本に帰化した。また、渡日当時、中国は明末清初の騒乱期であったことから、この騒を避けて来日したとされているが、残されている書簡や記録等からは、そのように判断する根拠は乏しい。隠元が入った興福寺には、明禅の新風と隠元の高徳を慕う具眼の僧や学者たちが雲集し、僧俗数千とも謂われる活況を呈した。明暦元年(1655)、妙心寺元住持の龍渓性潜の懇請により、摂津嶋上(現在の大阪府高槻市)の普門寺に晋山するが、隠元の影響力を恐れた幕府によって、寺外に出る事を禁じられ、また寺内の会衆も200人以内に制限された。隠元の渡日は、当初3年間の約束であり、本国からの再三の帰国要請もあって帰国を決意するが、龍渓らが引き止め工作に奔走し、万治元年(1658)には、江戸幕府4将軍徳川家綱との会見に成功した。その結果、万治3年(1660)、山城国宇治郡大和田に寺地を賜り、翌年、新寺を開創し、旧を忘れないという意味を込め、故郷の中国福清と同名の黄檗山萬福寺と名付けた。寛文3年(1663)には、完成したばかりの法堂で祝国開堂を行い、民衆に対しては、日本で初めての授戒「黄檗三壇戒会」を厳修した。以後、中国福清の黄檗山萬福寺は「古黄檗」と呼ばれる。