目指したキッカケ | 川村結花オフィシャルブログ「日々のサビ」Powered by Ameba

川村結花オフィシャルブログ「日々のサビ」Powered by Ameba

川村結花オフィシャルブログ「日々のサビ」Powered by Ameba

6年間通った恐怖のピアノ教室をやめ、

中学生になったわたしは近所の先生のところへ

通うようになりました。

 

その先生はまだ当時27歳くらいの女性で

サバサバしててラフなカッコしてて

アタマも柔らかく冗談もOK(笑)で、

それまでのわたしの認識、

ピアノの先生=アタマかたい&ひらひらフリルの服

というイメージとはまるで違った印象でした。

 

当時洋楽を聴き始めたわたしに、その先生は

キャロル・キングのLPレコードと

キャロル・ベイヤー・セイガーのLPと

ジェニファー・ウォーンズのLPと

「名のない馬」のはいったアメリカのLPを

貸してくれました。(←わ。めっちゃ憶えてた!)

それをカセットテープ(←時代感、、、ゲッソリ)に録音して

毎晩寝る前に聴いたり、ピアノで弾いたりしました。

そうすることで自然に毎日いっぱい

ワクワク素敵な和音を弾くことをおぼえて行きました。

 

それまでも即興でピアノ弾いたり、の
作曲まがい?なことは好きでやっていましたが、

ちゃんと「曲」をつくるようになったのは、

それこそ五線紙に書くようになったのはこの頃でした。

そんなわたしを見てその先生がある日言いました。

 

「アナタ、高校は音楽の学校行けば?」

 

ものすごく予想外でした。

そういうのがイヤでピアノ教室を逃げ出したからです。

なのでそう伝えると先生は意外なことを言いました。

 

「ピアノ科行けっていうんじゃないのよ、
作曲科っていうものが音大にはあるのよ~~~。」
と、、、。

さらに

「入っちゃえばあとは自由で楽しいわよぉ~。」と、、、。

そう、その先生自身が音大の作曲科出身だったのです。

 

「そ、そうか、自由で楽しいのか!!!」

 

———それが発端でした。

 

当時の自分、どんだけ浅はかやねん!なハナシですが、

それがまず一番最初のキッカケだったのは確かです。

ただ、作曲って誰かに教わるものではないんじゃないか、

そういうギモンはありましたし、それは実際のところ

そうともいえるし、そうでもないともいえるし、

それについては思うところたくさんあったり、

わたし自身のうたづくりの話としてまた長くなるので

それは別の機会に、ということで、とにかくー、

 

当時のわたしの脳内では次第に

「進学、どうしよっか」という悩みの行方が

「そうだ。数学の問題1コ解くよりきっと

作曲の課題1コやる方が向いてるに違いない」

という結論に至った、と、

ゲーダイめざしたのはそういうことが
ハジマリだったのでした。

そして東京芸大付属高校を受けてアッサリ落ち(笑)、

地元の高校へ行きまた3年後、東京芸大作曲科へ入学、

という流れになるわけでした。

 

—って先日からなんだかこんなハナシしてしまってますが

自分の音楽歴を話したかったワケじゃなくて、

書いてるうちそんなことになってしまったのですが、

ともかくキッカケはそうとしても、それよりきっと、

「こんだけピアノの出来が悪い人間が

音楽の道なんか行けるわけないだろう」

というような、ピアノ教室で感じた視線—、

今思えば勝手に自分でイジけてただけなのかもですが、

なにかそういう幼少期に抱いたコンプレックスに

抗いたいという思いが大きかったような気がします。

「こんな怒られまくってたわたしだけど
自分の好きな音楽の道へ行っていいんだよ、
音楽は自由なんだよ」

ということを自分に証明したかったんだと思うのです。

なるたけアカデミックな方向で(笑)。

 

そしてゲーダイに入学したことで気がすんでしまい

わたしのアカデミックな道はそこで終了するのですが。

さらに「ゲーダイ出てるなら理論は完璧でしょう!」という

例の誤解に苦笑いしてごまかす日々が始まるのでした。

ああ、、、つながった、、、、。

 

前々回ゲーダイ話を書いたら、それによって

いろんな昔の心の引き出しがガサッ、ガサッ、と開いて

こんなハナシ書いてしまいましたが、、、

またちょこちょことそんないろいろ、

折あれば今後書いてってみようかな、と思います。