NO!!!





NO!!!





ノーーー!!!!!









そうです。もうお分かりですね。

NOといえば「ニューヨーク!!!」です。
NO NEWYORKですね。当然です。


行ってきたぜ氷室京介LASTGIGS。
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騒ごうぜ愛し合おうぜ、ライブハウス東京ドームへようこそ。ここは東京だぜ?オケイ!

氷室京介さんが今回のツアーを最後にライブ活動無期限休止という事になって、なんだか愕然としてしまった。時は流れているのだと。

BOOWYが青春だという事であればその青春は全くもって終わっていないし、氷室京介がもう聴けなくなってしまうなんて余りにも切ないじゃないか。待ってくれよお。



身体中に稲妻が走る様な気持ちになる事が人生に何度かあったとしたら間違いなくBOOWYがその大きな1つである事は間違いないでしょう。

ファミコンと漫画が好きな今でいうオタクの走りであった当時の僕。
BOOWYとの出会いで人生は間違いなく変わった。

本当に音楽なんて心底興味なかったのです。



兄がCDラジカセでXを聴いているのを観て
「やべえ!お兄ちゃんがグレた!不良になった!ヘビメタ聴いてるよ」
と思ったくらい。音楽なんて不良だ。おい、60年代かよ。

だってこちとらゲームオタクだもの。

ファミコンからのMSXからのMSX2だもの。X68000持ってたら大スターだもの。PCエンジンのメガドライブのプレステのセガサターンだもの。あ、ドリキャスわすれた。もっと忘れてるものもある。

BOOWYを進めてくれたのはお兄ちゃんだったのかなあ。同級生かなあ。
とにかく高校に入ったあたりでしたねえ。


「ロック」という日本語に訳せない概念に出会った1番最初だな。


まあ当然やりますよね。コピーバンド。

文化祭に出たいと思ってバンド練習するんだけれど、何から何まで分かんないもんだから練習飽きちゃってカラオケ大会始まったりね。バカだねえ。

バカだから難しい曲ばっかりやろうとしちゃってね。
簡単な曲練習すればいいのに、そういう合理的な頭も働かないの。本当にバカだねえ。

文化祭のオーディションで落ちちゃって文化祭には出られなかったんだよなあ。バカだねえ。



それでもずっと好きでずっと好きで。
友人と会えばもっぱらBOOWYの話ね。

まあね、そして、BOOWYが好きなBOOWYオタクになっていく訳だけれど。あら。オタクはオタクなんです。延々と。オタクの矛先が変わっただけだね。

あ、ゲームも延々と好きだった。オタクの矛先が増えたのか。


でね。
思ってもみませんでしたが。

BOOWYにハマればハマるほど「ロック」ってのは音楽性、音楽カテゴリではなく、精神性というか生き様だなあと気づいて行く。

それは、大好きでアルバムや映像を見れば見るほど知る事になるのです。

カッコいいね、こんな話。





実は僕が(僕の友人)BOOWYを知った時は時既に、BOOWYは解散していたのです。もうBOOWYはなくなっていたのです。


1つの伝記でいうと完結された状態ですね。

BOOWYの始まりから解散宣言、そしてLASTGIGSまでをすべて知ってしまった時にリアルタイムではなく、過去の状態の出来事になっていたし、続編のない1つの物語を読破してしまったようで、虚無感と切なさに襲われました。
全部読みたかったけど全部読んじゃった切なさみたいな。
あと、できる事は何度も読み返すだけ。





破壊と創造とはよく言ったものでね。

BOOWYというストーリーは既存の概念の破壊、そして創造、そしてまたそれを破壊。そして辞めどきという、次への創造への大きな破壊。
次へ行くためにスッパリ全てを辞めるという。

生き様と言うものそのものがすなわち「ロック」というのかあ。
まいったなあ、こりゃあ。と。

そして知れば知るほど、再結成なんかねえな。BOOWYは。と。




話は随分それました。

この度、そんな高校の親友達、コピーバンドやっていた同級生と一緒に氷室京介LASTGIGSを観に行ったんだけれど。



なんだかね。不思議な気持ちになったのです。

全くもってノスタルジックな気持ちになりませんでした。


氷室京介さんがBOOWYの曲も随分歌ってくれたんだけれど、おおー懐かしいー!的な気持ちではなく。
高校の時を思い出すなあ、思い出の曲だなあ、なんなら泣いたりすると思ってましたが、そうではなかったのです。


前にもブログ書いたのですけれど、音楽や映画、舞台でも絵でもなんでもそうかもなんですが、それを見たり感じたりする時の心境や状況、シチュエーションなんかで全然見方感じ方が変わるんだなあと。

この映画は、あの時みた時全然わからなかった、今は分かる。みたいな。
存在している映画や音楽CDの内容は何も変わっていないのに。
見る側聴く側の状況でね、同じものでも変わるの。感じ方が。




でも、何故かね。


それも違った。

あれ?
こりゃ、なんだ?何故だ。


と思いましたがよく考えました。

あ。


なるほど。そうか!これはライブだ。


多分当時の音源、CDやレコードを聞いたら懐かしいな、とかあの時と今は取り方が違うな、とか、そう思ったからだと思いましたがライブだから違うわ、確かに。



だって氷室京介自身が破壊と創造を繰り返し、変わり続けているからなのだと。

例えばB-BLUE歌ってくれたけど、高校の時に初めて聴いたB-BLUEともう根本的に全く違うB-BLUE。もちろん完全にB-BLUEはB-BLUEなんだけど。演奏も何も完璧にやってくれているのだけれど、もう別物。今の氷室京介が歌う今のB-BLUE。BOOWYではない。


でも重要なのは、それがまたメチャクチャカッコいいの。そうか、当たり前に氷室京介さんは進化しているのですものね。そりゃ当然だわ。
ごめんなさい。


氷室京介は現在進行形なんだもの。耳の調子が悪いのもあるかもだけれど、ライブ活動を休止するという大きな破壊をしようとする、ロックスターの辞めどきの美学に「進もう」とする氷室京介はやっぱり氷室京介だし、ノスタルジックではなく、そういう意味ではあの時好きになった氷室京介は変わり続けながらも結果俺たちが好きになった氷室京介なのだ。氷室京介はいつだってノスタルジックではないのだ。


これはすごい事だ。

破壊と創造も辞めどきもそれが氷室京介のロックだ。BOOWYを絶頂で辞めてしまうような氷室京介だ。
僕らの中のロックスターであり続けてくれているのだね。

ファンメッセージサイトで

「俺たちは、氷室京介を卒業出来ない」

というキャッチフレーズが。


いつまで経っても氷室京介は僕たちが憧れる生き様の氷室京介でいてくれるんだなあ。
凄えなあ。
 

終わって同級生と飲みました。 
昔話なんかしてないよ。
周りからはおじさんの集いに見えるのかな?


俺たちも現在進行形であり続けたいもんだね。

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