一昨日、安芸高田市甲田のミューズで、戸羽太陸前高田市長の講演会がありました。被災地の現状を知りたいと午後7時から始まる後援会に行ってきました。


 何度も被災地支援に行かれた、安芸陸前高田夢応援団の明木さんらの呼びかけに戸羽市長が応えられて実現した講演会でした。会場には多くの市民の皆さんが市長を迎えられました。


 私自身が忘れないためにと、できるだけ多くのみなさんに戸羽市長の声を届けるためにブログに記しておきたいと思います。以下、講演の要約です。もちろん文責は全て私にあることをお断りしておきます。


『 東日本大震災からこれまで、申し訳ないという気持ちで仕事をしてきた。陸前高田市が被災地で2番目に大きな被害を受けた。市内で1555体の死体を収容し、未だ223人の行方不明者がある。今も捜索は続いているが、今年に入って新たな不明者の発見はない。一日も早い復興を果たさなければならないが、一方で近親の行方不明者を探す方達にとっては、復興は始まらない。復興と捜索とのバランスもとらなければならない。


 陸前高田市では、以前から防災訓練は年に数回行い、沿岸部の自主防災組織でも避難訓練を行っていた。市も防災器具の整備のための補助を行っていた。


 しかし、国交省が30年以内に99%起こると想定していたのは宮城沖地震で、市役所付近の波が50㎝~1mだった。それまでに実際に起こった地震で避難した時も家屋がつかるということさえなかった。大きな油断があった。現実には、市役所は3階以上の屋上も飲み込む津波がやってきた。避難所として指定していた市民会館も3階建てがすべてのまれ、避難した市民は全て亡くなった。


 情報もあてにはならなかった。市役所のラジオで最初に聞いた津波高は3m。防潮堤が5mあったから、安心してしまった。この次に流れてきたとなりまちの大船渡市の第1波は30㎝という情報だった。これまでの経験からも今度も大丈夫と安心してしまった。現実には17mの津波が来た。津波は黒い壁になって襲ってくる。すべての民家を押し流した。


 17月が経ち、被災地の報道はなくなったが、現地では復興は何も進んでいない。市民のみなさんの意識も一様ではない。遺族になってしまった人とそうでない人の間の意識の違いは大きい。学者の中には、津波で崩れた建物を遺構として残せというものもいる。遺族にならなかった人は賛成するが、遺族になってしまった人にはつらい思い出でしかなく、残さないでほしいという。


 また、メディアは非常にありがたいものでもあるが、非常に迷惑なものでもある。視聴率さえ取れればいいというのが本音だと感じた。ある避難所の壁に書かれた「お母さんへのラブレター」をNHKが報じた。それがきっかけで壁を残そうという募金活動が始まった。現地の被災者の中にそれを残してほしいという人は一人もいなかったにも拘わらず募金が寄付され残さざるを得なくなった。その壁を残すのにNHKにお知らせしたが、もう興味は示されなかった。現地にしてみれば迷惑以外の何物でもなかった。


 復興が進まない理由は様々だが、国が本気だとは思えない。政府は被災地に寄り添うと言った。しかし、2200戸の仮設住宅の高台移転のために山を造成するのに必要な木を切る事さえ、森林法、都市計画法、補助金など、通常と同じ手続きを踏むように省庁が言ってくる。政府の行っていることとやっていることは全く違う。


 私にしてみれば、東北が東京から遠く離れた辺地だから遅れても平気なのだと思うほかない。これが東京だったらこんなに放っておくはずはない。


 行政の縦割りも緊急事態でさえ表れた。被災から間もない時期、ガソリンがなくて遺体安置所の作業にも困っていたので、ある副大臣に頼んで経産省からガソリンの手配をしてもらうことになった。しかし、ガソリンスタンドがすべて被災したので、安全に貯蔵、給油できる設備がない。そこで、自衛隊の隊長に頼んで危険な任務を引き受けて頂いた。明日はガソリンを各安置所に配ろうという日に経産省から電話がかかってきた。「経産省のガソリンを防衛省に給油させるな」という趣旨だった。一体誰が本気で復興を考えてくれているのか。


 海外メディアも多く来た。彼らの注目するのは、本当に復興できるのかという点だった。私たちは8年間で復興する計画を立てた。8年間では無理なのはわかっている。しかし、もう高齢の市民の方々に「あと15年間はかかる」などという希望の持てない話はできない。ただ、国が本気になればこの期間は短縮できる。世界に日本の力を示すチャンスだと復興大臣に訴えたが、聞く耳は持ってもらえなかった。私は悔しい。亡くなった人々に応えるためには前にも増して素晴らしいまちを作らなければならないのだ。


 これからのまちづくりは、全て一から始まる。私には、若い時にアメリカのタンパで過ごしたときに強く印象に残ったことがある。それは、障がい者の皆さんがまちのどこでも普通に暮らしていたことだ。陸前高田市もそんなまちにしたい。「ノーマライゼーション」と言わなくてもいいまちをつくりたい。福祉で交流できるまちに育つ子どもたちは強く優しく育ってくれるに違いない。私は「子供たちのために行う復興」ということを復興の本当の意味であると、市民の皆さんに共有してもらうようにしている。大人の意向に合わないことも出てくるが、子供たちのために我慢してもらいたいと。ふるさとと誇ることのできるまちに作り直すことが目標。


 今、被災地のことが忘れ去られることが一番怖い。被災地にはクリスマスも正月もない。仕方がないけれども、もし、皆さんが被災地のことを忘れてしまったら、被災地の人はもう頑張れないと思う。心の片隅で思ってもらうだけでいい。長い闘いになる。風化のスピード遅らせる気配りをお願いします。亡くなり、また行方の分からない1800人の悔しさに応えるためにも世界に誇れるまちにします。ありがとうございました。』