スティーヴン・スピルバーグ
『レディ・プレイヤー1 3D』
主人公ウェイド・ワッツは、何度となく「謎を解く鍵の『バラのつぼみ』」と発言していた。
これだけ聞くと何のことか分からないかもしれないが、多分『市民ケーン』でオーソン・ウェルズの演じた新聞王ケーンが、死の間際に発した謎の言葉「バラのつぼみ」から来ているのだろう。
そのように考えた時、巨大なVR空間「オアシス」を作り上げたジェームズ・ハリデーを『市民ケーン』の新聞王ケーンに重ね合わせていると考えることもできる。
どちらも大富豪かつメディアの支配者であり、幼少期の体験が謎を解く鍵となっているという点でも共通している。
マーク・ライランスが演じたジェームズ・ハリデーは、遺言として「3つの謎を解き明かした者に、莫大な遺産とオアシスを相続する」と宣言した。
こうしてオアシスを舞台にした熾烈な争奪戦が開始されるのだが、そこにはサブカルの歴史が詰め込まれたかのような大量のガジェットが画面に投入されていた。
その全ての出展を正確に指摘できるだけの教養は持ち合わせていないのだが、それでも見覚えのあるキャラクターの登場に心が躍ってしまったのも事実だ。
サブカルにもオタクにも縁遠いと自覚してはいるものの、デロリアンと金田のバイクがレースで横並びになると、そのあり得ない組み合わせに興奮を覚える。
全く世代ではないのだが、『シャイニング』や『サタデーナイト・フィーバー』が引用されていれば、自らの映画体験が否応なしに呼び覚まされる。
そうした引用元を指摘すると、なんだが映画オタクを自認するようで気恥ずかしい。
映画の知識をひけらかせば、その作品の精神をないがしろにするような気がするので、これ以上の指摘は慎みたい。
この作品の精神とは一体何かと言えば、階級間闘争を通じた革命の実現だ。
こういうことを言い出すと、一気に大上段に構えた感じになってしまうのだが、階級の概念は現在よりも作品の舞台となった2045年のオハイオ州コロンバスに暗い未来として予言されていた。
スタックと呼ばれる集合住宅は、トレーラーハウスを鉄骨の枠組みに縦に積み上げた形をしていた。
アメリカの郊外で貧困層が暮らす家と言えばトレーラーハウスと相場が決まっているが、2045年になっても状況は良くなるどころか、逆に悪化しているようだ。
トレーラーハウスという貧困層を象徴する形式が、土地の有効活用として縦に積み上げられているとしたら、それは悪い冗談でしかない。
階級による不平等が民衆の革命の動機となった20世紀とは異なり、2045年の現在ではVR空間のオアシスで現実逃避が可能となっている為に、そもそも民衆は革命を起こす気にすらならない。
その意味で、オアシスは統治者にとって大変便利なツールなのだが、この作品に統治者の姿が登場することはなかった。
オアシスで現実逃避ができるのだから、そもそも現実に不満を抱くこともなく、革命を通じて現在の体制を変革しようとする動機が生じないのも当然だ。
しかし、オアシスを作り上げたジェームズ・ハリデーが遺言を通じて莫大な遺産とオアシスの相続を宣言したことによって、それまで利用者に意識されることのなかった階級の概念が初めて意識された。
持たざる者にとって莫大な遺産のみならずオアシスを支配できる権利を手に入れることは、自らが持てる者へと階級を上昇させる機会となる。
それによって固定化されていた階級が、この千載一遇の機会を通じて流動化する事態となれば、これまでの他者との関係性が大きく変化する可能性を秘めていた。
だからこそハリデーの宣言をきっかけに、3つの謎解きに参加する者たちによる壮絶な戦いが開始されるのであり、その参加者が持たざる者であれば、当然のように持てる者への階級の上昇が期待された。
そこに参加するのがタイ・シェリダンが演じたウェイド・ワッツだった。
彼はオアシスではアバターのパーシヴィルとして謎解きに参加した。
2045年の時点で、彼が100年以上前の『市民ケーン』を観ていたのかは分からないが、「バラのつぼみ」という言葉が謎を解く鍵として使用されていた。
少なくとも『シャイニング』は観ていたようで、その世界に侵入したとしても、何が起きるかは予め分かっていたようだ。
そもそも彼に世界を変革しようとする革命の意志などなく、その他大勢と同じように、単に莫大な遺産とオアシスの支配に魅力を感じていたに過ぎない。
それに対して、彼と共に謎解きを競うことになったアルテミスは、その動機に革命の意志を予め持っていた。
女性の革命戦士と言えば、『ターミネーター』におけるサラ・コナーを思い出すが、アバターであるアルテミスに対する現実世界のサマンサ・クック(オリビア・クック)にも、そのイメージは当てはまる。
パーシヴィルは謎解きの過程でアルテミスやエイチ、ショウ、ダイトウとチームを組み、3つの鍵を手に入れる為に協力した。
これもまた実にアメリカ映画らしい展開であり、持たざる者たちの連帯が集団性として発揮されることで、持てる者たちへの抵抗が組織される。
そこには単独者のヒロイズムは些かもなく、一致団結したチームの協力によって目的を達成しようとする態度が存在した。
それこそがまさに革命集団に他ならず、それが政府や大企業に対するレジスタンスとして機能する。
この作品では政府の存在は希薄だが、それに対して大企業がオアシスの支配権を巡る競争相手として登場していた。
それがIOI社のノーラン・ソレント(ベン・メンデルソーン)だった。
民衆の現実逃避の場となっているオアシスを支配することは、民衆そのものを支配することになるように、その権利を民衆が手にするのか、それとも大企業が手にするのかでは、自ずと未来は変化する。
つまり、オアシスを舞台に繰り広げられるオアシスの支配権を巡る争奪戦は、誰が世界を支配するのかという問題と同義であり、即ちオアシスの支配者が世界の支配者となるということだ。
それは莫大な遺産を手にする以上に重大な権力を手にすることであり、それがもし大企業の手に渡れば、ウェイドたちの現実は改善するどころか悪化することにしかならず、その階級もまた永遠に維持されるだろう。
そうした危機感をウェイドたちが共有できていたのかと言えば、大変覚束ないのだが、それでも結果的に革命戦士とならざるを得なかった彼らを応援することが、観客にとって素直な態度となっていたことは間違いない。
その戦いにアイアンジャイアントやメカゴジラやガンダムが出てくるものだから、オタク心をくすぐられて物語の本質的な状況を忘れがちになるのだが、ここで問題とされているのは、いくらVR空間が高度に発達したからと言って、現実の問題が解決される訳ではないということだ。
仮想空間に対して現実空間の重要性を説くことは、それこそジジイの説教にしかならず、そうした仮想空間批判が手垢にまみれているのは事実だ。
しかし、仮想空間にどっぷりとハマることが、現実における権力の暴走を許すことになるのであれば、これほど国民もしくは民衆を統治しやすいツールもない。
権力に対して無批判で従順な国民を作りたいのであれば、現実逃避の手段であるVRは画期的な発明であり、いつまでも国民を無知な状態に置いたまま操縦することが可能となる。
そうした権力の期待に対して、この作品はまさに権力の手段であるVRを通じて抵抗を試みているのであり、敵の武器を奪って自らの武器とするのは、戦争における古典的な戦術であると同時に持たざる者たちにとって有効な戦い方でもある。
「バラのつぼみ」という言葉に象徴されるのは、不遇だった幼少期の記憶であり、オアシスを作ったハリデーの幼少期に一体何があったのかを知ることが、謎を解く鍵となっていた。
冒頭にヴァン・ヘイレンの『ジャンプ』が鳴り響いていたのは、単なるノスタルジーではなく、ハリデーが果たせなかった夢を、その後継者となる若者たちが果たす為の大いなる助走として配置されていた。
VR空間では旨い飯が食えないという現実こそが、人間を人間足らしめている最大の根拠だ。
それに気付く為にも、ウェイドたちはハリデーが犯した失敗を乗り越える必要があった。
スピルバーグもハリデーとなっていた可能性は十分あったはずだが、『ペンタゴン・ペーバーズ』という現実への関与を実践していたように、彼は常に仮想空間と現実空間との行き来を怠ってはいなかった。