スティーヴン・スピルバーグ
『ペンタゴン・ペーパーズ/最高機密文書』
「友だちか記者か選ばなければいけない」と迫られた時、夫の死によって新聞社の経営を引き継いだキャサリン・グラハムは、重大な決断を下さなくてはならなかった。
ロバート・マクナマラ国防長官が命じて作成させた「ペンタゴン・ペーパーズ」は、歴代政権によるベトナム戦争への関与を調査した報告書であり、そこには戦況が悪化しているにもかかわらず、政府が国民に対して嘘をつき続けてきた証拠が記されていた。
この文書を1971年に入手し、最初にスクープとして掲載したのはニューヨーク・タイムズだった。
しかし、この作品の原題が“THE POST ”であることからも分かる通り、物語の舞台はワシントン・ポストだ。
つまり、ワシントン・ポストは、ニューヨーク・タイムズが入手したスクープを後追いしたのであり、その意味では必ずしも先駆的な役割を果たした訳ではない。
しかし、ここで重要な点は、日常的に新聞社同士でスクープ競争を行っている一方で、権力から報道の自由が脅かされそうになった際には、新聞社同士が結束して権力に抵抗を試みることにある。
トム・ハンクスが演じたワシントン・ポストの編集主幹ベン・ブラッドリーは、確かにニューヨーク・タイムズに対するライバル意識を人一倍持ち合わせていた。
しかし、ワシントン・ポストがペンタゴン・ペーパーズを後追いしたことによって、結果的に掲載の差し止め命令を受けたニューヨーク・タイムズの援護射撃となった。
それが例え政府の最高機密文書であったとしても、国民の知る権利に応える為には、情報漏洩の犯罪に問われようとも必要な行為だったことが証明された。
この重大な決断を下したのは、メリル・ストリープが演じたワシントン・ポストの社主キャサリン・グラハムだった。
それまで彼女は上流階級の奥様でしかなく、経営の経験などなかったにもかかわらず、夫の自殺によって45歳にして社主に就任した。
ベン・ブラッドリーの妻トニー(サラ・ポールソン)の言葉を借りれば、キャサリン・グラハムは「軽んじて扱われてきた」。
男たちばかりの役員の中で、彼女は社主であるにもかかわらず、まるで置物のように頭ごなしに経営方針が決められてゆくしかなかった。
ワシントン・ポストの株式公開とペンタゴン・ペーパーズのが掲載されるタイミングが重なったことも、彼女の決断に影響を与えた要素として重要だ。
株式公開の趣意書には、非常事態が発生した際には契約を破棄できるという条項があり、仮に機関投資家が撤退するようなことがあれば、ワシントン・ポストの経営が直ちに傾く可能性もあった。
それがペンタゴン・ペーパーズを掲載すべきかどうかの決断に影響を与えていたが、彼女の悩みはそれだけでなく、ペンタゴン・ペーパーズの作成を指示し、まさに国民に対して嘘をつき続けてきたマクナマラ長官と彼女が長年に渡る友人だったことにある。
「友だちか記者か選ばなければいけない」と迫るベンに対して、キャサリンは社主に就任する以前から家族ぐるみの付き合いをしてきたマクナマラに対する恩義感じていた。
ペンタゴン・ペーパーズをポストに掲載すれば経営が傾くだけでなく、友人であるマクナマラを裏切ることは避けられなかった。
上流階級の奥様として社交に勤しんでいればよかった彼女にとって、それが報道の自由を守る為の重大な決断となることを自覚せざる得なかった。
メリル・ストリープが演じたキャサリン・グラハムは、パーティーや夕食会は別にして、役員やベンから決断を迫られる際は、常に不安気な表情を浮かべていた。
経営者も記者も経験したことのない彼女にとって、その双方から正反対の要求を同時に突き付けられれば困惑するしかなかった。
しかも彼女は女性であることを理由に「軽んじて扱われて」きたのだ。
キャサリンが自宅でマクナマラを招待して夕食会を催した時、男たちが政治について話し始めると、奥様方はサロンへと移動し、政治から完全に遮断された状態で女だけの世界を形成するのだ。
更に言えば、ポストの株式公開の際には、アメリカン証券取引所の部屋の前に奥様方たちが集合している中、それをかき分けるように部屋に入ったキャサリンは、そこで上場企業の仲間入りを果たしたことを男たちに祝福されていた。
このように女たちは政治からも経済からも疎外されているのだが、キャサリンはワシントン・ポストの社主であるが故に男たちから例外的に「クラブ」への参加を許可された。
つまり、例外的な女の行動は、男からの許可を必要とするのであり、男は表面的に女を慇懃に扱ってはいるが、それが例外的な措置であることを男は決して忘れたりはしない。
ペンタゴン・ペーパーズをポストに掲載することは、国民に対して嘘をつく政府を追及し、それによって憲法で保証された報道の自由を守るという意義があるが、それと同時にキャサリンにとっては女であることを理由に軽んじて扱ってきた男たちに対する抵抗でもあった。
それを象徴的に示していたシーンが、決断を迫られたキャサリンに対して、役員たちが顔を近付けてプレッシャーを掛ける光景だった。
椅子に座りテーブルに肘を付く彼女に対して、男たちはテーブルに手を掛けて顔を近付け取り囲むのであり、その体勢からして男たちは女に言うことをきかせようとしていることが分かる。
少なくとも役員たちにとっては、キャサリンの存在は父親や夫から新聞社の経営を引き継いだだけの置物に過ぎず、それらしきことを吹き込めば自分たちの言うことをきくだろうと高を括っていた。
男たちに囲まれ、女がたった一人で決断しなくてはならない状況で、常に不安気な表情を浮かべていた彼女が、この状況で自らの信念を貫き通せるかが、最大のサスペンスとして機能していた。
その決断に比べれば、ペンタゴン・ペーパーズを入手できるかどうかは大した問題ではない。
それを入手したニューヨーク・タイムズでさえ、その内容を報道することに躊躇し、差し止め命令によって掲載を見送ったように、情報の中身もさることながら、自らが監獄に行くことを決意してまで掲載することには大きな決断が必要だった。
花よ蝶よと育てられた上流階級の奥様が、自分を軽んじてきた男たちに対して抵抗するかのように、大きな決断を下すのであり、それはもしかしたら男にはできなかったことかもしれないのだ。
最高裁の聴聞会に出席しようとしたキャサリンは、原告である政府側弁護団の助手の女性から「勝って下さい」と励まされた。
キャサリンは自らの決断が女性たちを勇気づけていたことに気付かされた。
それは声なき者に声を与える行為であり、役員会でスピーチできなかった彼女が自らの言葉で決断を下すという意味でも自らに声を与えたと言える。
最高裁判所から出てきたキャサリンを女性たちが出迎える光景は、それが報道の自由を守る戦いであったと同時に女たちの戦いでもあったことを示していた。
軽んじられていたのはキャサリンに代表される女性ばかりでなく、政府に嘘をつかれた国民も同様であり、誰かを軽んじる者は、その代償を必ずや支払わなくてはならないことを、彼女の行動は証明していた。
キャサリンの決断によって新聞社の輪転機が回り始めると、その振動が編集部まで伝わった。
それはまるで『ジュラシック・パーク』における恐竜の出現を告げる振動のように感じられた。
政府が国民に対して長年に渡って隠蔽してきたペンタゴン・ペーパーズが、今まさに白日の元に晒されようとしているのだから、それはまさに恐竜の出現に違いない。
恐竜が恐怖の対象だったように、政府にとってはペンタゴン・ペーパーズの暴露もまた恐怖の対象に他ならない。
恐竜が出現する際の振動は、観客にとって恐怖の始まりであると同時にワクワクする興奮をもたらしたように、輪転機が回り始める瞬間もまた歴史の歯車が回転し始めるかのような興奮をもたらした。
それは海面から『ジョーズ』の背びれが垣間見えることと同様に、そこでは大きな出来事の到来を告げるサスペンスが展開されていた。
その意味では、ジャンルこそ異なるもののスティーヴン・スピルバーグは観客を楽しませるエンターテインメントの映画監督だと言える。
冒頭のベトナムでの戦闘シーンを除いて、アクションはほとんどないのだが、その代わりに輪転機が作品における重要なアクションを担っていた。