ヴィム・ヴェンダース
『アランフエスの麗しき日々』









タイプライターを見つめたまま微動だにしない男は、決意を固めたようにタイプライターに紙を挿し込んだ。

イェンス・ハルツの演じたこの男は、どうやら作家のようで、これから書き始める文章の一行目を思案していたのだ。

郊外の小高い丘の上に建つ緑の溢れた別荘の一室で作家はタイプライターを打ち始めるのだが、彼の頭に浮かんだイメージが庭のテラスに一組の男女を出現させた。

テラスにはテーブルとイスが置かれ、その頭上には藤棚があり、穏やかな日差しが降り注ぐ中、一組の男女が向かい合わせに座っている。

タイプライターを前にした作家のつぶやきに導かれるようにして、レダ・カテブ演じる男とソフィー・セミン演じる女は対話を開始する。

ペーター・ハントケの戯曲「アランフエスの麗しき日々 夏のダイアローグ」を原作とした作品は、原作には存在しない作家を登場人物に加えることによって、戯曲が書かれる過程を物語の構造に組み込んだ。

作家のいる部屋から見えた庭の光景が、まるで映画のスクリーンのように映し出されることによって、それが作家の頭に浮かんだイメージであることを観客に理解させた。

その光景を作家はタイプライターを通じて文字へと変換するのであり、それが作家の創作活動だと言える。

しかし、物語の進行に伴って庭のテラスで展開される一組の男女の対話が作家によって創作された結果とは必ずしも言い切れないのではないかという不安に駆られ始める。

作家のつぶやきに導かれるようにして、男女の対話が開始されていたはずだが、いつしか男女の対話が作家の頭に浮かんだイメージを追い越しているのではないかという思えてくるのだ。

庭のテラスで展開されていた男女の対話は、作家によって創作された結果だと思っていたが、それまでイメージでしかなかったはずの登場人物が、作家のコントロールから離れ、自立的に行動しているように見えた。

当然のことだが、作家の頭に浮かんだイメージである男女は、自らを創作した作家の存在に気付いていない。

少なくとも二人は自分たちが創作されたイメージであることの自覚はなく、あくまでも現実に存在する生身の人間であることを前提として対話をしている。

しかし、この男女は作家によって創作されたイメージから離れ、自立的に行動し始めることによって、逆に作家に対して創作のアイデアを提供しているように見えるのだ。

これは明らかに創作する者と創作される者の転倒に他ならず、作家とキャラクターの役割を交代することに等しい。

その証拠に作家によって創作されたイメージに過ぎないはずの男女が、作家の部屋を逆に覗き込んでいた。

男女は一方的に作家によって見られる存在であることに飽き足らず、逆に作家を見ようとしているのだ。

それは自分たちが作家によって創作されたイメージであることを自覚しているからこそできる行動であり、そうなると登場人物である男女こそが物語を生み出す作家ということになる。

作家は自分が物語を創作しているつもりが、逆にキャラクターに創作されているのであり、そうした立場の交代が幾度となく物語の中で起きているように感じられた。

創作されたイメージに過ぎない男女は、作家の頭に浮かんだ光景を純粋に反映する対象だ。

その為に、男女の衣装が何の説明もなく突然変化したりする。

オレンジの服を着ていたはずの女は、別のシーンで青い服に着替えていたり、男も突然ジャケット着て現れたりする。

また男はメガネを掛けていたかと思えば別のシーンでは掛けていなかったり、それと同様に被っていた帽子がテーブルの上に置かれていたりする。

建物を背にした状態で左側に座っていた女が、別のシーンでは右側に座っていたりと、男女のポジションが一切の説明を欠いたまま平然と交代するのも、それが作家の頭に浮かんだ光景だからだ。

そうした数々の変化は、確かに作家の頭に浮かんだ光景を反映した結果なのかもしれないが、それらの行動を登場人物が自発的に行っていたとすれば、作家とキャラクターの関係は自明ではなくなる。

男が女に対して、「初めて男と寝た時のことを覚えているか?」と問いかけたことから始まった対話は、いつしか性的体験談から愛の問題へと発展する。

しかし、女の話題が愛へと至ると、男はすかさず、「それはルールにない」と言って制止しようとした。

そのようなルールが男女の間で予め合意されていた記憶はないのだが、男の要求するルールを無視して女は愛について語り続けた。

それと同様に男もまたテラスの前にある芝生へと進んで身振り手振りを交えて語り始めると、女はすかさず「アクションはルールにない」と言って制止しようした。

しかし、男もまたルールを無視してアクションを交えて語り続けたように、予め合意されていなかったルールが唐突に持ち出されては、それが無視される状況が反復されていた。

タイトルにある「アランフエス」とは、男の話に出てくるスペインの王族が住んでいた王宮を指しており、その王宮跡を旅した男の記憶として登場していた。

ほぼ庭のテラスと別荘の一室に限定された作品において、「アランフエス」とはあくまでも想像されたイメージに過ぎず、その光景が画面に登場することは決してなかった。

作家によって創作されたイメージとして男女は画面に登場していたが、そのイメージされた登場人物によって語られた「アランフエス」は登場しないのだ。

恐らく登場人物の男女は作家が戯曲を完成させれば消えてなくなってしまう存在であり、今まさに庭のテラスで生きて対話していた男女の命は、作家の手に握られていると言える。

そうなることを登場人物である男女は予め自覚していたように「アランフエスの麗しき日々の終わり」を言葉に出して語ることで、この物語の終わりもまた予感している様子だった。

「アランフエス」にはスペインの王族が暮らしていた王宮は既に存在せず、かつて存在した畑の種子が森へと広がることで、在りし日の記憶へと想いを馳せることができると男は語っていたが、そのような痕跡として男女は存在したのかもしれない。

作家の存在を映画に導入することによって、創作されたイメージに過ぎないはずの男女が、逆に物語を創作し始めることの転倒を引き起こしていた。

創作はジュークボックスから聴こえてくる音楽にも導かれており、ニック・ケイヴが「イントゥ・マイ・アームズ」をピアノで弾き語りする光景を画面に出現させたのも作家の想像力の為せる業だった。

想像力は何事も実現できる力を持っているが、その想像力が創作を担う作家だけのものではなく、創作されたキャラクターにも存在するとしたら、全てを支配すると思われがちな作家の立場も途端に危うくなる。

男女が作家の部屋を覗き込んでいたことに象徴的に示されていたように、キャラクターの命運を左右する作家は、そのキャラクターに復讐される日がくるのかもしれない。

女が対話の中で示していた男に対する復讐とは、もしかしたら自らを創作した作家に向けられていたのではないかと妄想してしまった。