第18回 東京フィルメックス





特別招待作品





ワン・ビン
『ファンさん』








歯をむき出しにして口を開け、目を見開いたままベッドに横たわるファン・ウイシンの姿をカメラは捉え続ける。

2015年の彼女を捉えた画面には、この頃既に認知症を発症していたとは言え、そのふくよかな姿からは生気が感じられた。

しかし、それから1年後の2016年には、その体は痩せこけ、もはや家族とさえコミュニケーションが取れない状態へと症状が悪化していた。

来るべき日の到来を既に家族は自覚しているらしく、ベッドに横たわるファン・ウイシンの周りには、息子や娘、親戚、近所の人々が集まり、その話し声が喧騒を生み出していた。

その中心にいるファン・ウイシンは、何も喋らず、周囲の話し声に反応することもなかった。

彼女の見舞いに集まった人々は、その先に何が起こるのかを既に予感しており、その時が来るまでの時間を、他愛ないおしゃべりで埋め合わせているように見えた。

口を開け、目を見開き、何ら身動きしない状態で横たわり、一切の反応を示さない彼女が、そうしたおしゃべりを聞いていたのか客観的に判断することは不可能だった。

その姿をカメラは身じろぎすることなく撮影し、長回しの画面として提示する時、それを目の当たりにした観客は、否応なしに慄然とさせられる。

そこに何を感じ取るかは観客の自由なのだが、まるで人間という存在の深淵を覗き込むかのような恐怖を感じてしまった。

その際の感情を言葉にすれば、自ずと陳腐とならざるを得ず、もはやそれに相応しい言葉など存在しなかった。

彼女が一家の中心ということだけではなく、ベッドに横たわる彼女が、その空間における中心を占めていた。

しかし、その空間に彼女は無言の状態で横たわっているのみであり、彼女が何かを発信することによって、周囲の会話が展開していた訳ではなかった。

カメラが彼女のクロースアップで映し出している時でさえ、その画面に周囲に集まった人々のおしゃべりが重ね合わされ、その内容が彼女の話題の時もあれば、全く無関係の話題の時もあった。

「やかましい」という表現が決して誇張とは思えないほど、ベッドに横たわる彼女のすぐ側で、そこに集まった人々による議論が交わされていた。

それは病人を前にした不謹慎な行為というよりも、彼女の存在が周囲の人々に議論を生起させたと言うべきだろう。

つまり、一切の反応を示すことなくベッドに横たわるファン・ウイシンの存在が、家族や親戚、近所の人々を同じ空間に集める役割を果たしたのだ。

彼女の存在を通して喧々囂々の議論が交わされることで、彼女自身が語ることなしに周囲の人々の発言から彼女とは一体何者だったのかが、次第に明らかになった。

中心が無言である代わりに、その周囲は常に喧騒に満ちているのであり、「やかましい」状態が発生するのは、彼女という人間について語るべきことが存在するからだった。

カメラは彼女が横たわるベッドを中心に撮影しながら、その部屋を出入りする人々の姿も同時に映し出していた。

あくまでも、その空間で起きることを中心に記録している為に、この作品の登場人物と言える周囲の人々の情報を紹介するようなこともなく、彼女との関係性は観客が類推するしかなかった。

時おり画面に家族の名前が表示されるが、それすらも作品にとって本質的な情報とは思えず、その画面に現れる個別具体的な顔や身体から人間という存在に対する普遍的な視点を引き出そうとしているように思えた。

ベッドの置かれた寝室の外では、近くの川で男たちが小舟に乗って魚を捕っていた。

それが寝室の外側にある男たちの日常に他ならず、病の床にあるファン・ウイシンが作品における中心を占めているとは言え、その外側には当然のように日常が継続されているのだ。

彼女の来るべき時が、特別な時間と空間だとすれば、それと同時に日常の時間と空間も同時進行しているのであり、その両者をカメラは行き来することによって、二つ世界が地続きに存在することを示していた。

もはや流動食の入った注射器を使って口から栄養を補給するしかない状態にあった彼女は、家族ともコミュニケーションが取れなくなっていたが、ふとした瞬間に虚空に手を伸ばし、何かを掴むかのような仕種を見せた。

これまで瞬きすら満足にできず、もはや自分の力では寝返りもできなかった彼女が、最後の力を振り絞るように手を伸ばす姿に、これもまた陳腐な言葉にしかならないが、生の輝きを感じた。

ベッドの傍らに座っていた娘は、何かを掴もうと虚空に伸ばした母親の手を取り、自らに引き寄せた。

その動きが何らかの彼女からのメッセージだったなどと短絡するつもりはないが、もはや一切のコミュニケーションが不可能だと思われていた彼女のアクションに、それを観た者の心をかき乱す何かがあったのは確かだ。

それを感動的な光景と表現することも陳腐であることを避けられず、そうした光景を目の当たりにした時、ことごとく言葉を失念する状態に置かれると言った方が正確だろう。

彼女の沈黙をよそに、親戚たちは彼女の死後に遺体をどの墓地に埋葬しようかと話し合っていた。

その会話が彼女のクロースアップに重ね合わされる時、それが不謹慎な響きにも感じられたが、彼女に対する美辞麗句に覆われた気遣いとしてではなく、来るべき時の準備だと考えれば、それもまた至極当然の対応だったと言える。

そうした不謹慎とも受け取れる会話もまた、ファン・ウイシンという中心が存在して初めて可能なのであり、周囲とのコミュニケーションが困難となった彼女が、自らの存在を通して周囲の人々に語らしめていると考えることもできる。

彼女について語ることは、彼女について思考することであり、沈黙せざるを得ない状態にある彼女に代わって、周囲の人々が饒舌に振る舞うことで、彼女の生涯を語り直すことにもなった。

その会話からは彼女が離婚した当時の状況が判明し、それが原因で親戚たちの間で口論へと発展していたように、彼女を中心とした空間において議論が交わされることで、彼女とは一体何者だったのかが次第に明らかになった。

「やかましい」状態が収束する時、それこそが来るべき時の到来に他ならず、それまで周囲の人々の会話によって喧騒に満ちていた空間に沈黙が訪れた時、ファン・ウイシンは中心の座から退いた。

いかなる言葉も陳腐にしてしまう画面の圧倒的な力を前にして、それを目の当たりにしてしまった者は呆然自失となるしかない。

その力は画面の力のみならず、常に喧騒として鳴り響く音の力も含まれており、喧騒の後に訪れる静けさに、厳粛な瞬間の到来が告げられていた。

そこには個別具体的な顔や身体が記録されているが、誰にでも訪れる来るべき時の到来には、対象の固有性から遥かに飛躍した人類の普遍性へと至る道筋が示されているように思えた。

それ故に、この作品が恐るべき傑作だと確信した。