ジャン=ピエール&リュック・ダルデンヌ
『午後8時の訪問者』









『午後8時の訪問者』には、ドアを「開ける/開けない」という個人の行為の内に、国境を「開ける/開けない」という国家の行為が予め含まれている。

医師のジェニー・ダヴァン(アデル・エネル)は、診察が終了した午後8時5分に診療所のブザーが鳴らされたにもかかわらず、ドアを開けなかった為に、後日遺体で見つかった若い移民の女性を見殺しにしてしまったのではないかと後悔の念に苛まれた。

彼女は自ら素人探偵となって、亡くなった移民の女性の名前を知ろうと調査を開始するのだが、診療所の前任の医師や事件を担当した刑事からは「君に責任はない」と言われた。

確かにドアを開けなかったジェニーに直接の原因がある訳ではなく、移民の女性が亡くなった責任は、彼女を死に至らしめた者にある事は明白だ。

にもかかわらずジェニーは、もし自分があの時ドアを開けていれば、彼女を救えたかもしれないと想像するのであり、その想像力が亡くなった移民の女性の名前を知ろうとする行為に駆り立てた。

それは確かに「想像力」の問題だ。

移民の女性の死に対して、私には何の責任もないと表明する事もできたし、そこまでしなくても日常に追われながら、その事実を無かったかのようにやり過ごす事もできたはずであり、それをしなかったとして彼女を責める者など誰一人としていなかっただろう。

例え誰かに責められなかったとしても、ジェニーは自らが抱いた想像力の為に、自分で自分を許せなかったのだ。

それは何も彼女が高潔な精神を持ち合わせていたからではなく、一人の人間を救えたかもしれない状況で、その義務を果たさなかった為に、一人の人間を死に追いやってしまった事に後悔の念を抱いたからだ。

この問題は、一人の人間を救えた可能性があるにもかかわらず、その可能性を自ら閉ざしてしまった者が、異なる可能性があったのではないかと考える事に意味がある。

ジェニーは診療所のブザーが鳴らされたにもかかわらず、そのドアを開けなかった為に、移民の女性を死に追いやってしまったと後悔しているのであり、もし自分があの時ドアを開けていれば、彼女を救えたかもしれないという可能性について考えたのだ。

それこそがまさに想像力に他ならず、彼女以外の人々は名前すら知らない移民の女性が遺体で発見されようとも、その事実に想像力を働かせる事はなく、再び日常の生活へと戻って行くだけだ。

仮に想像力を欠いていたとしても、それをもって他者を非難する事などできないように、ジェニーもまた誰からも非難されなかった。

しかし、彼女は誰からも非難されなかったとしても、異なる可能性について考え始めてしまった以上、亡くなった移民の女性の名前を知る事を自らに義務として課したのだ。

取り敢えずミステリーの形式を持つ作品では、素人探偵であるジェニーにとって亡くなった移民の女性の名前が判明すれば、その謎は解決した事になるはずだった。

しかし、それ以上に重要な事は、ドアを開けなかったという選択が、単に一人の医師の問題に留まらず、今日的なヨーロッパ及び世界の問題に通じている事にある。

つまり、ドアを開けなかったのはジェニーである事以上に、ベルギーという国家、ひいてはEU、もしくはアメリカや日本であったとしても一向に構わないのだ。

むしろドアを開けなかった事が正しい選択であるかのように言い含められる状況が現在の世界を覆っており、自らの行為が招いた移民の女性の死という現実に罪悪感を抱く事の方が、偽善と非難されかねない状況になっている。

見知らぬ他者の死に対して想像力を働かせない事を悪として非難する事はできないが、想像力を働かせて行動する者が、まるで偽善者のように扱われる状況ほど理不尽な事はない。

ベルギーのリエージュの郊外で発生した一人の移民の女性の死をきっかけに、彼女が何故死に至ったのかを素人探偵であるジェニーが調査する事によって、ヨーロッパの郊外が抱える問題を浮かび上がらせる効果があった。

そもそもジェニーが前任の医師の代理で勤めていた診療所は、郊外に住む高齢者や肉体労働者、移民たちを主な顧客としていた。

それだけでも既にヨーロッパにおける問題の一旦が垣間見えるのだが、そこに誰からも関心を抱かれない移民たちの存在が、一人の移民の女性の死をきっかけ浮上するのだ。

名前が分からないという事態は、その遺体が無縁墓に埋葬されるという事であり、もし家族が彼女を探そうとした時、名前が分からなければ探せないと想像力を働かせたのがジェニーだった。

警察ならともかく、周囲に彼女の名前に関心を抱く者など皆無であるが、名前が分からない状態とは、自ずと彼女の存在が容易に忘却される事を意味していた。

彼女の存在を忘却する事をジェニーは許せなかったのだが、それは世間が忘却する事以前に自分自身が忘却する事を許せなかったのだ。

ここで重要な問題は、どのような経緯で移民の女性が亡くなったのかという事ではなく、何よりもまず彼女の名前を知る事がジェニーにとって最優先課題だった事だ。

彼女が最後まで問題したのは、亡くなった移民の女性の名前を突き止め、その名前を墓碑に刻む事であり、誰かも分からない状態で埋葬する事を彼女は決して許そうとはしなかった。

それが仮に叶わず、無縁墓に埋葬されたとしても、彼女の名前が判明したあかつきには、ジェニーが資金を出して墓を用意しようとしていたほどだった。

これほどまでの情熱を傾けてまで、見ず知らずの移民の女性の名誉を回復しようとするジェニーの姿が、大いなる使命を自らに課しているように見えた。

ジェニーの目的は亡くなった移民の女性の名前を突き止める事にあり、決して彼女を殺害した犯人を見つける事ではなかった。

素人探偵として振る舞うジェニーの調査の過程では、情報提供者に対して「医師としての守秘義務がある」と繰り返し述べていたように、例え情報を提供したとしても決して警察に通報しない事を約束していた。

この姿が、まるで信者から告白を受ける司祭のように見え、誰かを責めるのではなく、むしろ許そうとするジェニーの態度の内に、真相が明らかにされる契機を含んでいた。

だからと言って、この作品がキリスト教の隠喩によって成立しているという事では決してない。

ジェニーや移民たちの行動に宗教的な動機や要素など一切なく、あくまでも人間の内に秘めた根源的な行動原理に従っているように見えた。

恐らくダルデンヌ兄弟は、この人間の内に秘めた根源的な行動原理を信じているのであり、ジェニーの行動によって、行動しなかった者たちを責めている訳では決してないが、それを尊い行動として理解している事は明らかだ。

その為に、物語の後半になって何の前触れもなく、一気にミステリーの謎が解決してしまう展開が、余りに御都合主義的だと批判されても仕方ない。

しかし、こうした御都合主義的な展開が、何の前触れもなく訪れるのがダルデンヌ兄弟の作品なのであり、それが時として人道主義的なメッセージを反映させた結果だと批判される原因にもなっている。

それでもなお、この作品に限らずダルデンヌ兄弟の作品を擁護したくなるのは、その当事者である登場人物の行動が人道主義に基づいていると自覚されていない点にあり、あくまでも登場人物は人間の内に秘めた根源的な行動原理に従っただけなのだ。

ジェニーもまた自らの行動が人道主義的に正しいからしているのではなく、自らの内に湧き起こる衝動を抑えられなかっただけであり、それは何より異なる可能性に対して自らの存在を無意識に開いたからだ。

異なる可能性に自らの存在を無意識に開いたからこそ、ジェニーに呼応する存在が現れたのであり、そこに見ず知らずの他者の内に自らの存在を発見し、それによって新たな連帯の可能性もまた開けるはずだ。

その可能性を単なるお題目に過ぎないと批判する事はできるが、移民たちに対する無関心が他者に向けられた感情だとすれば、想像力を働かせる事によって他者の内に自らを発見する事ももまた感情に他ならない。

想像力を働かせてしまったばかりに、ジェニーは自らのキャリアを棒に振ってまで郊外の診療所に留まる決意をするように、それが正しいか正しくないか以前に、自らの内なる衝動に従ったジェニーの行動は、無意識ではあるが国家の行動に影響を与えずにはいられない。