ベン・ウィートリー
『FREE FIRE フリー・ファイヤー』









今まさに銃の取り引きが行われようとしている廃工場で、偶発的な事態を契機に二組のギャングが銃撃戦へと発展する作品は、それが複数の登場人物によるガン・ファイトであれば、その都度両者の位置関係を俯瞰ショットとして画面に配置するべきではなかったのか?

やたらとクロースアップが多用される作品にあって、銃を撃つ者と撃たれる者を切り返してみたところで、両者の位置関係はさっぱり分からず、どこから銃を撃ち、その弾丸がどこに届いたのかを明示しないので、登場人物のリアクションばかりが画面を支配する事になる。

まず廃工場の全体像を俯瞰によって示す事で、二組のギャングの位置関係を明示しておかなければ、画面に対して登場人物のどこに敵がいるのか分かり難く、しかも登場人物は廃工場の内部を頻繁に移動するので余計に分からなくなる。

これもまたアクション映画においてクロースアップが多用される事の弊害であり、しかもクロースアップとクロースアップを細かいカット割りによって繋ぐ為に、その位置関係を観客に理解させようとする意志を予め欠いている。

画面手前の登場人物の肩越しに敵を画面奥に配置すれば、少なくとも二人の位置関係は把握できるのだが、廃工場の内部で二組のギャングが陣地を二つに分けて向かい合う構図を示す為には、俯瞰ショットが必要となる。

前半から物語を辿って行けば、どちらが敵か味方か分からなくなる事はないが、問題は廃工場における両者の位置関係であり、それを俯瞰ショットによって示す事を怠っておきながら、やたらとクロースアップの連続で銃撃戦の迫真性ばかりを求める態度が気に食わなかった。

そうなると、どうしても登場人物のキャラクターに依存しなくてはならなくなり、エキセントリックな振る舞いをした者が、その銃撃戦で注目される地位を手に入れる。

閉じた空間におけるギャング同士の銃撃戦(もしくは仲間割れ)という意味では、タランティーノの「レザボア・ドッグス」を思い出すのだが、彼の作品では常に登場人物の位置関係を示すショットが挿入されていた事を考えると、さんざん下手だと言われていた彼でさえ、そうした基本的な方法を決して怠ってはいなかった。

それもこれもクロースアップに対する過度な依存がもたらした結果であり、この作品に限らず近年のアメリカ映画が空間における登場人物の位置関係を適切に配置する事を怠り、やたらとアクションの迫真性を追求するようになった弊害が、こうした例に表れていた。

登場人物がやたらとおしゃべりという点もタランティーノを思い出させた原因であるが、そのおしゃべりがタランティーノ作品では最終的な大爆発を準備する大いなる助走として機能していたのに対して、『フリー・ファイヤー』では登場人物のおしゃべりが、キャラクターの造型に役立っている程度の機能しかなかった。

前半の登場人物のおしゃべりから、後半に銃撃戦へと発展する過程は予め目に見えており、そのほとんどが銃撃戦に費やされた作品にあって、勝者を決定する為の仕掛けが中途半端に放置された感が否めない。

廃工場の2階から突如として鳴り響く電話の音によって、仲間を呼ぶ事ができる手段の存在に気付いた彼らは、その電話を制する者が即ち勝者となる事を確信したかのように、電話の争奪戦を開始した。

飛び交う銃弾の中をかいくぐり、電話のある2階のオフィスへと辿り着く為の競争が開始される事によって、自ずと画面上部への上昇が運動として導入される。

アクション映画において上昇の運動が常に勝利の条件として機能してきたが、この作品ではむしろ廃工場の地面を這いつくばる者に勝機が用意されており、上昇へと駆り立てられた者たちは勝機を失う構造になっていた。

ここでは二組のギャングの間で唐突に発生したはずの銃撃戦に対して、その事態を予め想定していたかのようなスナイパーの存在が投入される事で、物語は三つ巴の戦いへと突入した。

ただでさえ二組のギャングの位置関係が分かりにくかったのに、新たに第3の勢力が投入された事で、二組のギャングとスナイパーの位置関係は、ますます分かり難くなってしまった。

その原因は三者をクロースアップで繋いでしまうからであり、三者の位置関係を俯瞰ショットによって示せば、まだ理解できたのだが、最初から空間的に位置関係が分かりにくい廃工場を舞台として選んでいる事もあり、目印となるような背景が存在しないのだ。

そこで繰り広げられる銃撃戦は、「バカ」の存在によって開始され、再び「バカ」の存在によって泥沼に陥った。

その「バカ」というのが、購入した銃の運搬を担当する事になっていたスティーヴォ(サム・ライリー)だった。

彼は前日の喧嘩相手が偶然にも取引相手の一員にいた為に、前日の喧嘩が取引当日に再現されてしまう事態となった。

サム・ライリーが演じた、いかにも頭の悪そうなスティーヴォというキャラクターは、大事な取引を台無しにしてしまうという意味で物語には必要であり、彼の存在が引き金となって銃撃戦へと発展するのだから、彼の存在無くして物語は成立しない。

スティーヴォの喧嘩相手となるのが、妹をナンパされた挙げ句殴られた事に腹を立て、取引中であるにもかかわらず、突如として彼に殴り掛かるハリー(ジャック・レイナー)だった。

彼もまたスティーヴォと同様の「バカ」であり、双方のギャングに「バカ」を配置する事によって、それが全体を巻き込んだ抗争へと物語を発展させる引き金となる。

銃撃戦において俯瞰ショットの不在を指摘してきたが、双方の「バカ」の死に様には俯瞰ショットが用いられているのであり、この俯瞰ショットによって二人の位置関係は手に取るように把握できた。

この死に様を描写する為に、銃撃戦における俯瞰ショットが自粛されていたのではないかと思えるほど、二人は銃撃戦による他の死者とは異なる特権的な死に様を用意されていた。

ごく好意的に見れば、二人の「バカ」の死に様の為に俯瞰ショットが温存されていたように感じられ、複数の登場人物が敵対する空間的な位置関係を犠牲にしてまでも「バカ」な二人に相応しい「バカ」な死に様が用意されていたように思えてならない。

この二人は一貫して上昇とは無縁の地面を這いつくばる者として生を全うしていたように、その死に様は生き残った者よりも遥かに勝者に相応しかった。

台詞にしてもアクションにしても前半に繰り出された要素が、終盤になって登場人物へと回帰する構造となっていた。

その構造が単なる銃撃戦だけには留まらない仕掛けとなって効果的に配置されている事は認めるが、それでもなおクロースアップに対する過度な依存が、空間の把握を阻害した事は間違いない。

やたらとおしゃべりな南アフリカのイギリス人であるヴァーノン(シャールト・コプリー)が、「悪気なく」アイリッシュや黒人や女性に対する差別を繰り出していた。

そんな彼もまた最終的には差別された者から復讐される構造になっており、おしゃべりな人間なら当然のように電話の争奪戦に参加するだろうと予め見越していたかのように、その罠に彼はまんまと引っ掛かるのだ。

それに比べて唯一の女性であるブリー・ラーソンが演じたジャスティンは至って大人しいキャラクターであり、アクの強いキャラクターの中で彼女の存在感は極めて希薄だった。

その希薄さに理由があった事をラストになって知らされるのだが、ブリー・ラーソンという女優にとってラストまで大暴れを禁じられる事態が、果たして良かったのか疑問に感じる。(全くの余談だがタランティーノならば大暴れさせていたはずだ)

上映時間の90分という丁度良さが、ジャンル映画の条件に適っており、だとすればスタジオシステムに忠実にアクションもまた職人的な手さばきを見せてほしかった。

その設定自体に斬新さはなく、これまでにもさんざん繰り返されてきた主題の反復であれば尚更のこと空間的な位置関係を把握する俯瞰ショットの適切な配置が欠かせなかったはずだ。