新藤風
『島々清しゃ』









映画を観てこんなにも腹が立ったのは久しぶりだ。

沖縄の自然と文化に寄り掛かり、そこに纏わり付く神話を解体するどころか強化する態度は、それが例え無邪気な動機だったとしても許し難いほどに映画と沖縄を冒涜している。

青い海と青い空という典型的な光景に多少なりとも米軍の戦闘機による轟音を重ねれば、それで沖縄を描写できると考える事自体が極めて傲慢な態度であり、それは多くの人々が抱くだろう最大公約数的な沖縄のイメージを強化する事にしか貢献しない。

それは何も本当の沖縄を描いていないなどという批判を加えたいからではなく、沖縄に纏わり付くイメージを批判的に解体するのではなく、そのイメージを積極的に再利用する事で、これまで散々繰り返されてきた沖縄のイメージを再提示する事しかできていないからだ。

そのイメージは青い海と青い空という典型的な光景として画面に映し出されており、それらが観客の期待する沖縄の光景に寸分違わず一致している事の堕落ぶりが手に取るように分かる。

それだけに留まらず、物語においても都会に疲れた女が何かから逃れるように沖縄にやって来て、そこで子供たちと出会い、互いに反発しあいながらも心の交流を通じて和解を果たし、それまでの生き方を見つめ直すという気恥ずかしいほどの展開が待ち受けていた。

この余りにも手垢にまみれた物語を本気で採用したとすれば、完成した作品が堕落するのも当然だと言える。

それが仮にジャンルに規則に則り、沖縄に憧れを抱く人々を満足させる為のリゾート映画として成立していたとすれば、それはそれで依頼を忠実にこなしたのだ理解すれば良いだけだ。

しかし、この作品を観る限り、予めリゾート映画を期待して訪れた観客を満足させる事を目的にしたのではなく、その中途半端な沖縄に対する問題意識をちらつかせながら、本気で人間ドラマに取り組んだ節がある。

今さら都会に疲れた女が沖縄の青い海と青い空や地元の人々との心の交流を通じて癒される物語を本気で映画にしようとする者がいるとすれば、それこそ本気を疑う。

その構図の古臭さに我慢にならないだけでなく、都会に疲れた女の癒しの手段として沖縄が現在もなお有効な舞台である事を無条件に肯定する態度にも傲慢さを感じる。

つまり、沖縄とは都会に疲れた女を癒す為に、その典型的なイメージを維持しなくてはならないのであり、そこにいくら基地問題をまぶしたところで、その癒し機能が相変わらず肯定されている事には違いはない。

沖縄がリゾート地である事を否定しないし、リゾート地で癒される都会の女がいても一向に構わないが、それがあたかも独特なセンスを活かした映画であるかのように振る舞われると、その徹底して凡庸なセンスに絶望的な気持ちにさせられる。

その凡庸さは沖縄に纏わり付くイメージや物語の設定のみならず、登場人物がことごとく自らの内面を台詞として雄弁に語っている光景に表れており、そこまで説明されてしまうと、もはや観客など必要とされていないのだと思わざるを得ない。

都会に疲れた女である北川祐子(安藤サクラ)は、青い海を臨む白い砂浜にやって来て疲れを癒していたように、沖縄という記号に何ら疑問を抱く事なく、それが提供してくれる癒しを存分に受け止めていた。

そこが単なるリゾート地ならば、リフレッシュして再び都会に戻れば良いだけなのだが、詳しくは語られていないものの都会でトラブルを抱えているらしい彼女はすぐに都会には帰りたくないらしく、地元の小中学校で吹奏楽部の先生を引き受ける事になった。

都会でトラブルを抱えた女性教師が田舎にやって来るという設定が、これまで何回繰り返されたのか数えるのは疲れるのでしないが、それ自体が既に手垢にまみれているのに、そこで地元の子供たちと交流する事によって、それまでの生き方を見つめ直す展開まで手垢にまみれていると目も当てられない。

南の島とは問題を抱えた者たちの一時的な避難場所に都合良く使用されてきたように、そこで出会う人々もまた都会に暮らす者たちとは異なる純粋な心の持ち主として、都会から逃避してきた者たちに癒しを与える存在として期待されている。

たいていの場合、その期待が裏切られる事はなく、多少なりとも反発が生じたりはするものの、それも最終的に和解がもたらされる為の準備にすぎない。

実際に祐子は地元の漁師である真栄田(渋川清彦)に、「ヤマトはいずれ帰る」と冷たく突き放されていたが、ほどなくして彼の隠れた才能に気付いて和解していた。

ここにはヤマトンチュとウチナンチュの対立が存在したが、それだけでなく父と娘や那覇と慶良間のように、内部の対立もまた物語に導入されていた。

その対立が最終的には和解へと至る事は予め分かりきった事実であり、それ自体とやかく言うつもりもないのだが、それがジャンルに規則に則った上で語りの洗練を目指すのならまだ理解できる。

しかし、そうした手垢にまみれた設定が、さも独特なセンスが発揮されているかのように振る舞うのであれば、こちらも容赦なく批判したくなる。

そもそも主人公である小学生の花島うみ(伊東蒼)が、耳当てを着けている事のわざとらしさに我慢ならなかった。

音に対して鋭敏な感覚を持つ彼女は、あらゆる音が雑音として聞こえてしまい、それが自らを苦しめていた為に、それを少しでも防ぐ目的で耳当てを着けていた事が説明されていた。

しかし、その耳当てが余りにも象徴的に用いられていた為に、作品全体が象徴に引きずられてしまい、登場人物のキャラクターを物語るというよりも象徴を弄んでいるようにしか見えなかった。

青い海と青い空という典型的な光景としての沖縄や都会に疲れた女が癒しを求めてやって来る沖縄、そして耳当てに象徴される少女時代特有の他者との関わり方が、余りにも手垢にまみれた設定として機能しているのだ。

しかも登場人物が軒並み自らの内面を台詞として雄弁に語ってくれるので、観客は単に説明を聞く立場に置かれ、用意されたメニューを強制的に食べさせられるだけになってしまう。

主人公うみと離れて暮らす母親のさんご(山田真歩)と父親である昌栄(金城実)とのこじれた関係が物語に対立をもたらしていたが、彼女の父親に対する思いが結局は美談として消費されてしまう光景を目の当たりにすると、それら全てが物語に奉仕する手段にしか感じられなかった。

しかも、登場人物の誰かが死ねば観客は感動の涙を流すだろうと作り手が信じていたとすれば、それは観客を馬鹿にしているとしか言い様がない。

そうしたエピソードを物語に導入しているという事は、やはり登場人物を単に物語の手段に利用していると認めているに等しい。

つまり、ことごとく安っぽい感動で物語を覆い尽くそうとしているのであり、それが沖縄と一風変わった少女と都会に疲れた女と音楽という要素によって構成されていた。

それらの要素を組み合わせれば感動的な物語が出来ますよと言わんばかりの傲慢さが作品には発揮されていたが、それが例え傲慢な態度だったとしても職人的な手管で見せてくれれば文句もなかったのだが、それがまるで作家による独特なセンスを発揮した結果であるかのように振る舞うからこそ腹も立つ。

祐子が砂浜で「G線上のアリア」をヴァイオリンで弾くと、それを聴いていたうみが「波の音と一緒だ」と言う光景に悪寒をもよおしてしまうほど、それが手垢にまみれている事の自覚の無さに恐怖すら抱いてしまった。

こうした光景は枚挙にいとまがなく、意地悪なおばさん役の角替和枝が、うみの母親を悪く言うと、フルートを握るうみの手が怒りで震えるクロースアップがインサートされていたように、内面を雄弁な台詞によって語っている訳ではないにしても、余りにも分かりやすい内面の表現にうんざりしてしまった。

この作品では説明的なインサートが何度となく繰り返されており、あらゆる状況を台詞にしろクロースアップにしろ説明しなくては気が済まないらしく、観客が登場人物の内面を類推する為の基本的な権利すら予め取り上げていた。

世界を代表するカメラマンである山崎裕を起用しながら、その画面を余りにも安易に切り刻んでしまい、本来ならワンショットで全てを納得させるだけの力を持った画面であるにもかかわらず、その力を放棄するかのようにカットを入れる事で台無しにしていた。

単に説明の為だけにカットが入れられており、そこに観客を安易に誘導しようとする魂胆が透けて見えてしまうだけに悲しい気持ちになった。

体育館の舞台上でリハーサルを行う吹奏楽部の子供たちを手持ちカメラで撮影したシーンにこそ山崎裕の真骨頂があるはずだが、それが単に沖縄の美しい風景をカメラに収めましたというだけでは余りにももったいない。

沖縄の自然と文化に寄り掛かった作品は、手垢にまみれた設定に対する基本的な自覚を欠いたまま、それがさも作家の映画であるかのように振る舞う事によって成立していたが、かえって底の浅さが露呈してしまい、見るも無惨な結果に陥ってしまった。

映画に点数を付けるという無粋な趣味は持ち合わせていないが、今回だけは何の躊躇もなく0点を付けたい。