テレンス・マリック
『聖杯たちの騎士』









『シン・レッド・ライン』までは許せたのだが、『ニューワールド』で次第に怪しくなり、『ツリー・オブ・ライフ』で壮大にやらかしてしまってからというもの、『トゥ・ザ・ワンダー』に至っては何の印象もなく、もはやテレンス・マリックは完全に神秘主義にハマってしまったのではないかと心配になった。

『聖杯たちの騎士』を観た限り、彼は未だ神秘主義から立ち直ってはおらず、むしろ症状は悪化しており、その絶望的なまでのつまらなさが、ほとんど病的な領域へと達していた。

その「つまらなさ」とは、単に物語が分かりにくいとか、哲学的な思考が実践されているとか、複雑な要素が絡み合っているという事とは全く無関係に、それが余りにも単純に出来ている点にある。

『ツリー・オブ・ライフ』で端的に示されていたのは、ある家族の極めてパーソナルな歴史から人類のみならず地球の歴史、更には宇宙の誕生にまで一気に拡大させる事にあり、そのような極小と極大を無媒介的に接続させる事で作品は成立していた。

そのコンセプトは『聖杯たちの騎士』にも受け継がれており、『ツリー・オブ・ライフ(生命の樹)』に比べれば幾分か縮小してはいるが、それでもなおハリウッドの脚本家の極めてパーソナルな歴史が大自然と対比される事で、自ずと宇宙の壮大な光景へと接続されていた。

どうやらテレンス・マリックは、個人の些末な出来事を宇宙から俯瞰したいという欲望に駆られているようで、個人の矮小さと宇宙の壮大さの双方の極点を映画によって接続しようと試みているのだろう。

それは多分、個人の内面に宿る矮小な空間を宇宙の壮大な空間と対置させながら、その両者に共通点を発見しようとしているのであり、人間の内面という目に見えないものを視覚化する手段として、そのような方法を採用しているのだと思われる。

そういうところが怪しげな神秘主義に見える点であり、人間の卑俗な側面に意味ありげな解釈を与える手段として宇宙の神秘が持ち出されているようにしか思えず、それをキリスト教的な世界観を借りながら、あくまでも神秘へと落とし込もうとする振る舞いに嫌悪感を抱いてしまう。

人間の内面を神秘で説明できるとすれば、それは何も説明していない事と同じであり、決して「綺麗な」映像では誤魔化せるものではない。

この「綺麗な」映像に貢献しているのが、3年連続でアカデミー撮影賞を受賞したエマニュエル・ルベツキだ。

『ゼロ・グラビティ』にしても『バードマン』にしても、それらの作品が映画に新たなヴィジョンを提供したなどと喧伝されたとしても、にわかに信用できなかった者としては、テレンス・マリック作品において展開される神秘的な光景が、単なる誤魔化しにしか思えなかった。

「綺麗な」という言葉ほど映画において最も注意すべき形容詞はなく、それによって覆い隠されてしまうものがある事は、常に肝に命じておく必要がある。

ハリウッドの脚本家として成功を掴みかけているリック(クリスチャン・ベイル)は、連日パーティーに明け暮れながらも常に満たされない感情に苛まれていた。

それが父親との確執や女たちとの関係であり、彼は道を間違えてしまったという感情に囚われながら、それでも日々をやり過ごすしかなかった。

ボイスオーバーによって雄弁に語られる登場人物の内面は、分かりやすいほどの説明にしかなっておらず、いくらパーティーで羽目を外そうとも満たされない感情を抱えているという事が、観客には容易く理解できた。

ハリウッドにおける日常と大自然の光景が交互に配置される事によって、リックの内面的な推移が感情の起伏として表現されており、そこでは精神的に疲弊したハリウッドでの日常を大自然の光景が癒してくれるという分かりやすい対比が行われていた。

そもそも自らを巡礼者に例える時点で、鼻持ちならないカッコつけに他ならず、単なる個人的な悩みを宇宙の誕生に接続しようとする態度には、大言壮語にもほどがある。

どうしても極小と極大を無媒介的に接続したいテレンス・マリックは、ハリウッドの脚本家である主人公の取るに足りぬ内面を大自然や宇宙から俯瞰した光景として提示する事で、それがさも哲学的な思考であるかのように振る舞っているのだ。

それが哲学的な思考ではないと言うつもりは毛頭ないが、彼が抱える内面などというものはハリウッド映画の歴史から言っても実につまらない物語にしかならず、そんなものが脚本としてスタジオに提出されたとしてもボツになる事は目に見えている。

本来ならボツになるはずの脚本もテレンス・マリックに掛かれば哲学的な思考が実践された作品になるとでも言うのだろうか?

人間が卑俗であるが故に映画の登場人物に相応しいのであり、その卑俗な人間を金を払ってまでわざわざ見に来るのが観客という存在だ。

そのような観客の欲望に応えるのがハリウッド映画であり、例え手あかにまみれた常套句が展開されているように見えたとしても、そこに人間の複雑さが描かれている事があるように、ジャンルの規則に従う事は決して不自由な事態ではなく、むしろ大いなる自由を予め含んでいる。

それに比べてテレンス・マリックは、作家としての特別な地位を手に入れたのか、ジャンルの規則から自由になったつもりで、ジャンルの規則を無視した結果、ジャンルの規則を守った作品よりも遥かに凡庸な作品しか作れなかった。

この作品には、ケイト・ブランシェットやナタリー・ポートマンなどの売れっ子女優が出演しているが、その無駄遣いぶりは目を覆いたくなるほどの惨状を呈しており、彼女たちが哲学的な思考の手段としてのみ利用される光景には絶望しか存在しない。

テレンス・マリックとエマニュエル・ルベツキの絶望的な組み合わせによって、「綺麗な」映像が孕む映画に対する堕落ぶりが明らかにされた。

これは作家映画の悪しき例に他ならず、何も哲学的な思考それ自体を非難している訳ではなく、それがあたかも哲学的な思考であるかのように振る舞う事が欺瞞に感じられるだけだ。

内面などという決して目には見えないものを視覚化しようとする試みが、「綺麗な」映像にボイスオーバーを重ねる事だとすれば、それは作品からアクションを奪う結果をもたらした。

アクションとは単に登場人物が画面上で動いている事だけを指している訳ではなく、例え登場人物が静止していたとしても画面に動きがもたらされる事もあるように、そこで展開される関係性や物語を駆動させる方法を指している。

この作品はやたらとカメラは動いているし、登場人物もむやみやたらに動いてはいるのだが、それが関係性や物語に奉仕する事はなく、あくまでも新しいヴィジョンや「綺麗な」映像のみに奉仕していた。

その新しいヴィジョンや「綺麗な」映像が、果たして主人公の内面を語り得ていたのかと言えば、それも甚だ疑問であり、個人の内面と宇宙空間を接続する神秘主義を用いて、あたかも語り得たように誤魔化しただけではないのか?

テレンス・マリックが心配になるのは、悪い意味で彼がヤバい方向に突き進んでしまったのではないかと思うからであり、まるでカルト宗教のPRビデオのような作品になっている事を本人は自覚していない可能性がある。

ここは正しく「つまんねーよ」と指摘しなければならず、これ以上彼を作家として祭り上げる事は全力で阻止しなければならない。