第17回 東京フィルメックス



特別招待作品





リティ・パン(リティ・パニュ)
『エグジール』









カンボジアの大虐殺から生還したリティ・パンが、その体験を作品化した『消えた画 クメール・ルージュの真実』では、クメール・ルージュによって歴史的な記録が徹底的に破壊されていた為に、その記憶を再現する手段として土人形が用いられていた。

その土人形は、まるでリティ・パンによって新たな生命を与えられた存在のように、クメール・ルージュによって虐殺された死者たちを現在に蘇らせていた。

今回の『エグジール』は、そのタイトルに「脱出」とあるように、リティ・パンがカンボジアを脱出してフランスに亡命するまでの過程が描かれているのだろうと勝手に想像していたが、むしろカンボジアにおける絶望的な状況において、いかにして生き延びたかが「詩的」に表現されていた。

しかし、200万人もの国民が虐殺され、生き残った人々もまた飢えに苦しんだ体験を「詩的」になど表現できるはずがない。

それを誰よりも自覚していたのが、リティ・パン自身だった。

つまり、「詩的」に表現できない状況を「詩的」に表現する事の矛盾を作品は予め抱えているのだ。

スタジオに立てられた粗末な小屋に、恐らくリティ・パンの若かりし頃を投影したと思われる青年が現れ、そこでクメール・ルージュに支配された時代のカンボジアが再現される。

『消えた画』の土人形と同様に、例えリティ・パンと思われる青年を画面に登場させたとしても、それによって凄惨な大虐殺や塗炭の苦しみを再現できるはずもない。

その限界を彼は予め認識しているが故に、それは「詩的」に表現されなくてはならないのだ。

リティ・パンがクメール・ルージュによる強制労働に従事していた時代の体験を主人公の青年もまた体験しているのだろうが、その体験は粗末な小屋の内部に予め限定されていた。

そこが彼の暮らす部屋であるだけでなく、彼の耕す畑やタニシを捕る川にもなれば、カンボジアの国土そのものになり、更には世界へと拡大し、果ては宇宙へと飛躍していた。

この空間は生存が脅かされた者にとって、再現された生活空間である事を越え、想像力によって再現された脳内世界でもあるのだ。

小屋という限定された空間に個人的な生活空間を再現するだけでなく、国土という具体的な土地を越えて国家のシステムまでもが射程に捉えられており、そのシステムが国民を抑圧する時、個人の想像力による抵抗が開始される。

その想像力が独裁政権に何の打撃も加えない事を主人公は自覚しており、それを単なる現実逃避と見る事も可能だが、それ以上に想像力を働かせる事が生存を脅かされた者による人間である事の最後の証のように思えた。

時おり画面にインサートされる当時のカンボジアを映し出したアーカイヴ映像は、リティ・パンと同様に数少ない生存者であるが、そうしたクメール・ルージュによる表面的なプロパガンダに対して、あくまでも彼は自らの記憶と想像力を信頼していたのだろう。

つまり、200万人にも及ぶ大虐殺を表現する事など予め不可能であり、それはホロコーストや原爆投下と同様に、決して語り得ない事態なのだ。

その語り得ない事態を語ろうとする事の内に予め矛盾が孕まれているのであり、それは「詩的」に表現できない事を「詩的」に表現する事の矛盾でもある。

ネズミを捕まえて焼いて食べたり、コオロギを炭で焼いて食べたり、タニシを煮て食べたり、木の根を掘って食べたりする行為が、大虐殺からの生存者であるリティ・パンの体験を再現しているのだろうが、それが再現でしかない事も自覚されている。

それによって自らの体験を他者に理解してもらえるなどと彼自身も考えてはいないだろう。

重要な事は、それが再現された光景である事を観る者もまた自覚する事であり、そこに予め限界が存在する事を自覚した上で、他者の苦しみを想像する事が求められている。

セットとして立てられた粗末な小屋に作品の舞台が限定されているのは、大虐殺を語る事の限界が反映されているからだ。

しかし、空間が限定されているとは言え、主人公の青年は想像力によって自らの生活空間から遥かに飛躍し、カンボジア全体のみならず、世界や宇宙にまで及んでいたように、強制移住と監禁によって完全に自由が奪われた状況において、彼は想像力の内に自由を発見するのだ。

その想像力によって彼が一体何と戦っていたかと言えば、それは「革命思想の夢」だ。

革命という甘美な響きによってもたらされた大惨事は、革命思想という夢を完遂しようとする革命それ自体の自動運動であるかのように、走り始めたら止まる事を知らず、その内部に果てしなく敵を生み出し、その敵を排除する事で際限なく持続する。

確かに革命を主導したポル・ポトのように独裁政権の中心に位置した者によって大虐殺は実行されたが、それもまた革命思想という夢を完遂する過程で引き起こされた出来事だと考えると、その夢に惹き付けられた人々もまた指導者と同様に責任を問われなければならないはずだ。

その責任をリティ・パンは左翼系新聞のリベラシオンに求めており、当時のリベラシオンは首都を制圧したクメール・ルージュに対して民衆が熱狂をもって迎えたとか、帝国主義から民衆が解放されたと後に大虐殺を引き起こす野蛮な独裁政権を支持する記事を掲載していた。

主人公の青年は、劇中で当時のリベラシオンの記事を読んでいたが、当然の事ながら彼がリベラシオンを読む事などできなかったはずであり、このように実際の体験とは異なる想像力の世界が限定された小屋の内部に実現していた。

当時の左翼系知識人が、帝国主義を批判する目的の為にカンボジア国内で行われていた重大な人権侵害や大虐殺に目をつむり、その成功を喧伝していた事に対する、生存者からの批判としても、この作品は成立していた。

かくも人々は革命思想の夢に囚われ、そこで起きていた暴力に無関心だったかを告発する意図が作品にあったのだろうが、そのような告発が作品の中心を占めている訳ではなく、正しさの為なら野蛮な行為も辞さないという態度が、現在に通じる世界の状況だと彼の体験は物語っている。

その小屋は大虐殺が行われていた当時のカンボジアに留まらず、革命以前のカンボジアも再現されており、恐らくリティ・パンの実家を再現したと思われる室内では、レコードによって当時の流行歌が掛けられていた。

そこでは空間と時間が融通無碍に入れ替えられており、強制労働によって塗炭の苦しみを味わされていた空間と時間もあれば、それ以前の家族と幸福に暮らしていた空間と時間もあり、そこから更に世界や宇宙へと飛躍した空間と時間までもが一つの小屋に実現していた。

その先にリティ・パンにとっての亡命先であるフランスがあるのだが、そのフランスから現在のカンボジアを眺めた時、そこには忌まわしい記憶と共に甘美な幼年時代の記憶が同居していた。

故郷として愛着を抱く祖国と自らに塗炭の苦しみを与え、かつ家族の命を奪った祖国が、彼の内部で引き裂かれた状態に置かれているだろうと想像すると、「詩的」に語り得ない事を「詩的」に語ろうとする事の矛盾は、彼にとって宿命的な事態なのではないかと感じた。