日本映画の現在




真利子哲也


自選集
『ほぞ』(2001)
『極東のマンション』(2003)
『マリコ三十騎』(2004)
『車のない生活』(2004)
『アブコヤワ』(2006)









『ほぞ』は、真利子哲也が映画の為なら何でもすると決意したかのような作品であり、その凶暴な振る舞いは最新作の『ディストラクション・ベイビーズ』へと通ずる一貫した精神ではないかと思える。

何より驚かされるのは、カッターナイフで自分の腕を傷付け、その傷痕から血が滲み出てくる様子をカメラに記録させ、なおかつその血を顔に塗りたくり、そのまま地下鉄に乗ってしまう行為にある。

その正気とは思えない行為が、単なる若者の青臭い破壊衝動などと片付けられないのは、それが真利子哲也による自意識の表現ではなく、映画の為に奉仕された身体行為に見えるからだ。

いかにも手作り感満載の人形の頭を街頭に配置してみたり、それを破壊してみたり、その頭を母親に見立てて他の人形と共に家族を形成してみたりと、そこには家族に対する彼自身の葛藤が存在するようにも見えるのだが、それが自意識の内側に留まる事なく、具体的な暴力となって外側に向けて発散されている。

その暴力は専ら自分自身に向けられている。

法政大学の学生会館で彼が二人の男からリンチされるシーンは、その場所から言っても学生運動の内ゲバを想像させるが、そのような政治性とは無縁に彼自身が酷く痛め付けられる事それ自体が目的になっている。

血だらけでキャンパスを歩いたり、地下鉄に乗ってみたり、その痛め付けられた姿を周囲に晒す事によって何かしらの変化が起きる事を期待しているのか、その暴力は常に衆人監視の下に行われていた。

それは『ディストラクション・ベイビーズ』でも同様であり、柳楽優弥は誰かを殴る事以上に衆人監視の下に誰かに殴られていた。

それが真利子哲也にとって映画の理想だとすれば、破壊衝動は他者に向けられた暴力である事以上に自分自身に向けられた暴力である事が分かる。



『極東のマンション』は、その考え方を更に突き詰めた作品であり、「自分を壊さなくちゃいけない」と呪文のように唱える事で、遂に自宅マンションの屋上から飛び降りてしまう。

それもまた破壊衝動の結果ではあるが、あくまでも衝動とは表現であり、それを実現する為には周到な準備が必要になるはずだ。

自宅マンションの屋上から飛び降りるシーンでは、複数のカメラを配置する事によって、自らの行為を客観的に記録する冷静さも持ち合わせており、なおかつ編集では複数の視点をカットバックさせる事によって飛び降りるという行為をスペクタクルとして演出していた。

それが単なる自意識の表現とは異なる点であり、本人がどこまで自覚していたのかは分からないが、この作品を観た人を純粋に驚かそうとする映画的な野心を感じさせた。

確かにボイスオーバーでは、表現への渇望や平凡な家族であるが故に語るべき対象にならない事の告白、将来に対する漠然とした不安などが語られていたが、それを額面通りに受け取れないのは、それらの全てが映画の為に仕掛けられた舞台装置に感じられるからだ。

真利子哲也がカンボジアで撮影してきた8㎜フィルムを両親に見せ、その感想を言わせるシーンにも中産階級の葛藤の無さを確信犯的に作品へと盛り込もうとする意図が感じられ、それによってボイスオーバーの深刻な語りに反して幸福な家族像が浮かび上がる。

カッターナイフと同様に、いくら自分の体をロープで縛り付けているとは言え、マンションの屋上から飛び降りてしまう事の大胆さが彼の作品にはあり、それを見せる手段もしっかりと心得ているだけに、彼の映画に対する本気を窺えた。




『マリコ三十騎』は、真利子哲也が法政大学を卒業するにあたり、「けじめ」として製作された作品だ。

『極東のマンション』でも家族と同居しながら好き勝手な事をしている事の「けじめ」としてマンションの屋上から飛び降りていたように、何かと彼の作品には「けじめ」という言葉が登場する。

「けじめ」と語られてはいたものの、マンションの屋上から飛び降りる事が何の「けじめ」になるのかは至って謎であり、それ以降も実家に同居していたように「けじめ」がついたのかはよく分からない。

『マリコ三十騎』の「けじめ」とは、法政大学のキャンパスでふんどし一丁で何事かを叫びながら駆け抜ける儀式を指しており、それの何が「けじめ」なのかは正直分からない。

それはともかく卒業論文の指導教官から真利子という姓が水軍に由来すると聞かされた真利子哲也は、その由来を自ら調べて文献から『マリコ三十騎』なる記述を発見した。

恐らくイメージシーンとして配置されているのだろうが、浜辺でふんどしを着けた大勢の男たちが、リーダーの座を巡って争う光景が登場していた。

これほど大勢の男たちがふんどしを着けて浜辺に大集合しているだけでも、ちょっとしたスペクタクルが実現しており、真利子哲也が先祖から妄想した光景を実際に再現してしまう事に、マンションの屋上からの飛び降りる事やカッターナイフで自分の腕を傷付ける事と同様の覚悟を感じた。

それはイメージシーンの内側に留まっていたが、彼はたった一人の『マリコ三十騎』として法政大学の新しいビルの食堂に他の学生たちもいる中、ふんどし一丁で何事かを叫びながら駆け抜けるのだ。

それは単に、おかしな奴がおかしな事をしたという事に留まらず、映画とは日常に波風を起こす事だと確信しているからだと思われ、だからこそ顔を血だらけにして地下鉄に乗ったり、マンションの屋上から飛び降りたり、裸でカンボジアを駆け抜けたりしたはずだ。

それもまた真利子哲也の「儀式」であり、真新しいビルの校舎と古びた学生会館を共存できないものかと問いかける彼の態度からは、どちらかに肩入れするのではなく、そのどちらもぶち壊そうとする「破壊衝動」が感じられた。




『車のない生活』と『アブコヤワ』は連続する1本の作品と言え、亡くなった祖父が遺したコロナを用いて作品が作れないかと考えた真利子哲也は、自動車販売会社が企画した賞金100万円のショートフィルム・コンテストに応募しようとした。

そのテーマが「車のある生活」であり、当初こそは彼もテーマに基づいて作品を製作しようとしていたが、コンテストの対象車種に祖父の遺したコロナが含まれていなかった為に、それを諦めたのか、もしくは方向転換したのか分からないまま、次の『アブコヤワ』に接続された。

『アブコヤワ』では、製作費としてプロデューサーから100万円を渡された真利子哲也が、その100万円をそっくり年末ジャンボ宝くじに注ぎ込む様子をドキュメントとして記録する事になった。

真利子哲也は100万円を全て年末ジャンボ宝くじに注ぎ込むドキュメントに家族を巻き込む為に、自分がバイトして90万円を貯めたと嘘をつき、残りの10万円を両親に出してくれないかと頼んだ。

何かと彼の作品に登場する家族は、どこまで彼の意図を理解していたのか謎だが、少なくとも俳優として貴重なキャラクターを提供していた。

いざ100万円を全て宝くじに投入するとなると、そのプレッシャーから真利子哲也に異変が生じていたが、それがどこまでドキュメントとして記録された結果なのか、それともフィクションとして演出された結果なのか、その境界が曖昧だった。

少なくとも実際に上野駅近くの小さな宝くじ売場で、彼は100万円を支払い、3333枚の宝くじを手にしていた事は紛れもない事実だった。

その当選結果も含めて、宝くじに大金を注ぎ込む事のドキュメントとしては至って平凡と言える。

しかし、これで終わらないのが真利子哲也の作品であり、冒頭にも言及していたが、彼は映画の為なら何でもすると決意した人間なのだ。

今後この作品が上映される機会があるのかは分からないが、以下ネタバレ注意で作品の顛末を記せば、中途半端に23万円が当たってしまった彼は、プロデューサーからショボくて上映できないと言われ、その決着をつけるべく、ある方法を実行した。

彼はコンビニのATMで23万円を引き出し、それをすぐさま床に置き、足で押さえて破き、コンビニから走り出したかと思えば、公衆トイレに駆け込み便器に流した。

コンビニから公衆トイレに行くまでの間に一切のカットは入っておらず、それが本物の23万円である事に疑いはなかった。

それを思い付いたからと言って実行に移してしまう人間はそういないが、それを実行してしまうのが真利子哲也であり、やはり彼には狂気が取り憑いているとしか思えない。

その狂気とは映画に奉仕する狂気であり、映画の為なら自分の腕をカッターナイフで傷付け、マンションの屋上から飛び降り、23万円を便器に流す狂気だ。

それは確かに暴力に他ならないが、自分自身に向けられた暴力は全て映画に奉仕されている事を考えると、彼にとって映画を作る事は単なる趣味でも職業でもなく、自分自身を傷付ければ血が出る体験として存在している。