日本映画の現在



横浜聡子監督特集




横浜聡子
『おばあちゃん女の子』(2010)
『りんごのうかの少女』(2013)
『真夜中からとびうつれ』(2011)









『おばあちゃん女の子』は、その主人公を演じた野嵜好美に「はつえ」という名が付けられているのだが、その「はつえ」は『ジャーマン+雨』で彼女が演じた「よし子」と同一人物ではないかと感じた。

その余りにエキセントリックな振る舞いには常人の理解を越えた絶対的な強度が存在しているが、その一方で子供と即座に連帯を果たしたり、子供じみた振る舞いをしながら大人としての冷徹な判断力も持ち合わせている。

「はつえ」と「よし子」の共通点として、劇中でリンゴにまつわる歌を歌っている事が挙げられる。

それはもしかしたら青森出身の横浜聡子にとって重要なモチーフなのかもしれず、それは歌に限らず具体的なリンゴとして、横浜聡子による他の作品にも登場していた。

『おばあちゃん女の子』に登場した腐ったリンゴは、『りんごのうかの少女』にも登場しており、それがまるで死の隠喩であるかのように劇中で機能していたのだが、そのような意味を読み取る事が横浜聡子の作品を鑑賞するにあたって正しい態度なのかは自信がない。

野嵜が演じた「はつえ」という存在は、まるで動物的な野性に従って行動しているように見える「よし子」を反復しているかのようだ。

はつえの住むアパートの隣の公園で、小学生の女の子が迷い猫を探していると、頼まれもしないのに彼女は迷い猫の捜索に参加するのだ。

彼女が公園に駆け出そうとして転んだ瞬間、カゴに入れていた缶詰が勢いよく飛び出した出来事が、果たして演出だったのか、ハプニングだったのかは分からないが、それこそが「はつえ」や「よし子」に相応しい行動に思えて仕方なかった。

はつえが迷い猫の捜索に加わると、何故か女の子ははつえを「おばあちゃん」と呼ぶのであり、その呼称にはつえが反論する事もなく物語が進行してゆくと、女の子が工事現場にあった黒と黄の縞模様の棒を差し出した時、それを受け取り杖にする事で本当の「おばあちゃん」のように振る舞い始めた。

また女の子から「逆上がりできる?」と聞かれた際には、「おばあちゃんだからできない」と自らをおばあちゃんとして話していたように、いつの間にかはつえは、おばあちゃんになっていたのだ。

しかも、自宅のアパートに帰ると夫のたかし(宇野祥平)に対して「おばあちゃんと遊んで」と話し掛けており、たかしも「おばあちゃん遊ぼう」と応答していたように、夫も含めてはつえがおばあちゃんである事に、取り立てて疑問を呈す者はいなかった。

冒頭から既に超音波エコーの写真によってはつえの妊娠が知らされていたのだが、その母体に危険が及ぶような迷い猫の捜索や給水塔への登頂を彼女は試みていた。

どこまで本人が自覚しているのかは分からないが、そこには腐ったリンゴに暗示された死の影が彼女のみならず、彼女のお腹の赤ちゃんにも差し迫っているように思われ、それが観る者をザワザワとさせるサスペンスを画面にもたらしていた。

『ジャーマン+雨』でも放火魔のドイツ人や子供や女子高生と淫行する中年男、更にはだんご虫に例えられた入院中の父親など、そこには死の影が差し迫っていた。

「はつえ」と「よし子」の間に単なるキャラクターとしての共通点があるだけでなく、それらの作品には共通して死の影が纏わり付いており、それが横浜聡子の全ての作品に当てはまる条件のようにも思われる。

しかし『ウルトラミラクルラブストーリー』の主人公のように、もはや主人公は生死を超越した超人の域へと到達してしまっていた。






『りんごのうかの少女』は、登場人物の全員が津軽弁で会話している為に、その全てを聞き取れる訳ではないし、その意味を正確に理解できている自信もないが、古典的な親子の葛藤のドラマでさえ、それが青森を舞台にしているというだけで、途端に神話的な相貌を帯び始める。

その古典的な親子の葛藤のドラマが、横浜聡子にしては至って正統派にも思えるのだが、そのテーマは既に彼女の初監督作である『ちえみちゃんとこっくんぱっちょ』で実践されていた。

その作品では、東京の出稼ぎから帰って来た父が、自分よりも1才若い女を妻として連れてきた事に内心の戸惑いを悟られまいとしているのか、さほど驚く素振りも見せずに同居し始める娘を主人公としてしていた。

ここでもまた死の影が画面を支配しており、リンゴと共に雪が主人公の内面的な変化を象徴していたように思うのだが、それもまた横浜聡子の事だから一筋縄では行かないはずだと身構えてしまう。


『りんごのうかの少女』では、不良少女のりん子(とき)が恋人の健太郎(永澤一哉)と家出している間に、父親の玉男(永瀬正敏)が落馬事故で亡くなってしまった。

主人公のりん子という名に、横浜聡子の作品のモチーフであるリンゴが予め仮託されているのだろうし、しかも彼女の実家はリンゴ農家を営んでいる事もあって、母親の真弓(工藤夕貴)は事あるごとに子育てをリンゴ作りに例えていた。

それが少々分かりやす過ぎる比喩として機能していたのが気になったが、冒頭から既にギャレス・バーンズによる津軽三味線の演奏が、ストーリーテリングの役割を果たしていたように、そこには神話的な語り口があった。

しかも物語には父親の玉男が突如として馬を譲り受けてきた事に対する説明を欠いており、その余りに唐突な死がまるで人間の消失のようにすら感じられた。

家出していたりん子は、久しぶりに自宅に帰った時に初めて父親の死を知るのであり、それによって母親から絶縁されたかと思いきや、それでもなお親子の縁の強さが再確認される。

それ自体は実に感動的な物語だと言えるのだが、それにしてもりん子が突如として金髪になり、父親が亡くなった原因の馬に乗って校庭に現れるシーンは、そこに例え内面的な必然性があったとしても、全くもってデタラメとしか言い様のない事態として出現していた。

校庭で生徒たちが行進の練習をしていると、そこに馬に乗ったりん子が現れ、馬から降りて行進の列に加わるのであり、それが過去に父親と行進の練習をした記憶の再現だとしても、何よりもまず金髪頭の少女が馬に乗って校庭に現れた状況に度肝を抜かれる。

父親の死をきっかけに、りん子は街からの脱出を試みるべく仲間たちと共にガソリン泥棒を働き、それを使ってリンゴ畑を焼き払い、それで降りた保険金を盗み出そうとする計画を立てた。

中高生らしき四人組の男女が赤いポリタンクを一ヶ所に集め、それを軽トラの荷台に載せて、歌を歌いながらリンゴ畑に向かう光景は、それによって若者たちが街から脱出できるという高揚感とは程遠く、むしろ死の予感を漂わせていた。

実際にりん子が頭からガソリンを被った時には、それが具体的に差し迫る死の影として画面を支配しており、その死をリンゴの木に代替させる事で死の影を振り払った彼女が、リンゴの化身である事は間違いない。

ここには「はつえ」や「よし子」のような破壊力抜群のキャラクターが登場している訳ではないが、太宰治が引用されていたように青森に纏わり付く神話的な状況が、死の影に覆われた登場人物に生死を超越させる能力を与えていたのではないだろうか?





『真夜中からとびうつれ』は、映画についての映画であり、映画の始まりがそのまま映画となった作品だ。

映画の起源にはスクリーンに光と影を投影するリュミエール兄弟のシネマトグラフと箱の中に投影された光と影を穴から覗き込むエジソンのキネトスコープがある。

『真夜中からとびうつれ』では、シネマトグラフではなくキネトスコープが映画の起源として採用されており、興行師らしき宇野祥平が客である男たちから金を取り、キネトスコープを覗かせていた。

宇野祥平が持ち歩く箱は、正確に言えばキネトスコープではなく、キネトスコープらしき箱であり、現代の学校の体育倉庫らしき場所で100年前の出で立ちをした者たちによる映画の起源が再現されていた。

とは言うものの映画の起源を再現する事が作品の目的ではなく、映画の起源にまつわる自由なイメージを創造する事が目的であり、そこでは映画の起源へと遡り、映画の物語が改めて演じられている。

映画の物語に必要最低限の要素は、女とピストルである。

その一つを構成する女役を多部未華子が演じており、彼女だけ時代にそぐわぬ青のトレンチコート姿で画面に登場していた。

この作品において、全ての出演者を含めて台詞を発するシーンは、多部による「映画」の一言のみであり、それ以外はサイレント映画のごとく登場人物のスラップスティックな逃亡と追跡があるだけだ。

どうやら客である鈴木晋介や戌井昭人、渡辺謙作、鈴木卓爾が、映画がつまらないなどと因縁を付け、一度払った金を取り上げて帰ろうとすると、興行師の宇野はピストルを彼らに向け、再び金を取り戻して逃げ出した。

こうして作品に逃亡と追跡が展開されるのであり、そこに謎の女として多部が姿を現した。

女の存在は、逃亡と追跡のドラマに当事者とは異なる第三者として発生し、その登場によってドラマに新たな展開がもたらされるのが映画の原則だ。

逃亡した宇野が放棄した箱は多部に渡る事で、今度は彼女が映画を見せる側に回るのだが、この作品が既に映画についての映画であるように、箱の中で投影される物語と箱の外で演じられている物語が同時進行し始める。

つまり、多部をはじめとする登場人物は、映画の外に存在していると同時に映画の中にも存在しているのであり、その二重性が多部を除いた当事者に自覚される事がないままに逃亡と追跡のドラマが展開されていたのだ。

それは映画が上映される事と同時に映画が製作される事でもあり、本来ならタイムラグが存在するはずの製作と上映が同時進行していた。

それによって映画の内と外の境界は融解してしまい、登場人物は等しく映画の観客であると同時に映画の出演者にもなった。

何故映画の起源がシネマトグラフではなく、キネトスコープだったのかは分からないが、そこに何か淫靡な欲望を感じ取ったのだろうか?

少なくとも映画の物語における必要最低限の要素である女とピストルによって映画の内と外の境界を融解させる事に作品は成功していた。