第16回 東京フィルメックス



コンペティション



チャオ・リャン
『ベヒモス』








中国の内モンゴル自治区に広がる露天掘りされた炭坑の風景から監督のツァイ・リャンは地獄の光景を感じ取り、このドキュメンタリーをダンテの「神曲」になぞらえて展開する事に決めたようだ。

その風景は、灰色がかった広大な土地に大きな口を開けた穴としてスクリーンを占めており、それが炭坑であるとは即座に理解できないほど不可解な何かとして存在している。

この穴の淵に鏡を持った男が歩いているが、上映後のQ&Aによれば、この男がダンテの案内人ウェルギリウスであり、まさに彼らは地獄巡りをしている最中だったのだ。

つまり、主観ショットであるカメラがダンテであり、彼が鏡を持つ案内人に付き従っていたのだ。

その主観ショットは常に持続している訳ではなく、時おり広大な荒野に全裸の男がカメラに背中を向け、膝を抱えて横にうずくまっている姿が映し出される。

こうして彼らは現在の中国を地獄として目撃する事になるのだが、そこに社会批評のみならず世界的な意味における文明批評の視点を発見しようとしている事は明らかだ。

しかし、その社会批評や文明批評が、中国共産党に対する直接的な批判に結び付いている訳ではなく、あくまでも内モンゴル自治区の風景を起点として、それを人間による原罪のイメージと結び付けているように思われる。

それは何も中国において共産党を批判できる環境が存在していないという事ではなく、それ以上に監督であるツァイ・リャンが選択した方法である事が何より重要であり、社会批評や文明批評の視点は、画面に映し出された風景の中に予め盛り込まれているのであり、それを発見するのはむしろ観客の務めだ。

それを発見する為には、余計な情報など無用とばかりに、登場人物に対するインタビューは全くなく、具体的な地名や人名は明示されず、多くを削ぎ落としたミニマムな表現に終始している。

その風景には広大な荒野が映し出されるばかりでなく、製鉄所の風景も登場しており、それがいかにも地獄の業火を思わせるだけに、安易な換喩に思えなくもない。

炭坑ではエレベーターで地下深く降りて行けば、そこには石炭の採掘場があるように、広大である事と狭小である事が分かち難く併存している。

そこが炭坑であれば労働者の存在もまた作品にとって重要な要素であり、炭坑の外側で石炭の山をスコップですくい、それをリヤカーに入れる作業をひたすら繰り返している一団がいた。

彼らが正式な炭坑の社員なのかは分からないが、機械化された現代において全てを人力で行う途轍もない重労働に、まるで終わりのない罰を受けているかのように見えてしまった。

この作業を二人一組でしていたのは、どうやら夫婦だったらしく、リヤカーに積んだ石炭を売りに行くのか、それを男性は自転車で引き、綺麗に整備された道路を似つかわしくない姿で疾走した。

その男性の顔がクロースアップで画面に映し出された時、そこには言葉には決して還元できない彼自身の歴史が反映されていたように感じた。

この作品には何度も労働者の顔がクロースアップで映し出されるが、労働者をカメラの前に立たせて、その顔をじっくりと観察するかのような視線で撮影されたショットはむしろつまらない。

それよりも労働や生活の中で実際に動いている最中に撮影されたクロースアップの方が画面として遥かに力はあり、それが彼らの具体的な身体性と結び付いた時に初めて労働が画面に定着されるはずだ。

だからと言って、それらのクロースアップが労働讃歌に繋がっている訳ではなく、過酷な労働を強いられる者たちへの共感を生み出す契機になっている。

炭坑で働く人々に共通するのは塵肺の問題であり、カメラは病院のベッドで鼻に管を通してボンベから酸素を送られる患者たちの姿を映し出す。

そこから作品は煉獄へと突入するのであり、この地獄と天国の中間において、彼らは自らの行き先が決定されるのを待っている。

病室に響き渡る咳の音と共に、患者たちの顔がクロースアップで繋げられて行くと、そこには経済発展の犠牲となった者たちの悲惨な光景が浮かび上がるが、この作品の特異な点は、それを声高なメッセージとして発するのではなく、煉獄のイメージに重ね合わせている事にある。

塵肺患者たちの中には、まるで宮殿のような豪華な自治区政府の庁舎の門の前に座り込み、横断幕を掲げて抗議する者たちもいるのだが、そうした光景に期待される役人と住人の小競り合いやシュプレヒコールもなく、患者たちは沈黙したまま門の前に座り込み、それを役人は排除する事なく眺めているだけだ。

このシーンに作品の態度が反映されているように感じるのは、現代の中国で起きている様々な問題を社会正義の観点から批判する事が目的ではなく、それを世界史の観点から人類的な問題として把握する為に、それらの風景を記録する事に主眼が置かれているからだ。

その手段として、ダンテの「神曲」が選択されているのであり、ダンテがウェルギリウスに案内されて地獄、煉獄、天国を見たように、現代の地獄、煉獄、天国をカメラは記録しているのだ。

現代における天国とは、経済発展の結果である豊かな生活という事になるのだろうが、それが中国においては荒野に突如出現した何十棟ものタワーマンションとなって現れる。

その外観はあらかた完成しているようだが、既に販売されたのか、それとも計画が途中で頓挫して放置されているのか分からないまま、それを管理している数人の労働者を例外として、そこには果てしない無人の光景が広がっていた。

快晴の空の下、両側にタワーマンションが建ち並ぶ間の道路をダンテとウェルギリウスが歩けば、この世のものとは思えないという意味では、そこは確かに天国なのだろう。

そこには何十棟というタワーマンションが無人のまま放置されており、それが遅れてやって来た資本主義の無惨な残骸として中国の現在を冷徹に見つめている。

それは天国というよりも地獄の光景に他ならず、その不毛な荒野が両者に共通する光景として画面に広がっている。

このように天国が地獄へと反転してしまう円環構造をこの作品は持っているのであり、炭坑が生み出したはずの富が労働者に還元される事なく、一部の資本家へと集中した結果、天国を生み出すつもりが逆に地獄を生み出してしまった。

この構造は何も中国に限ったものではなく、既に経験しているか、これから経験するかの違いでしかないのだろうが、そこで問題となるのは人類は決して歴史から教訓を学ばないという事実である。

ダンテの「神曲」がドキュメンタリーとなった現代の世界では、このような光景は至る所に存在するはずであり、現在の中国を舞台にしてはいるものの、それを世界史の視点から眺めたのが、この作品の特徴だ。

この作品自体に問題があるとすれば、画面に映し出されていたダンテの「神曲」に基づいて現在の中国を語っていた字幕のテキストが、余りに饒舌でだった為に、かえって状況を説明してしまった点にある。

上映後のQ&Aで、ツァイ・リャンは登場人物のインタビューを撮影したが、それは使わなかったと述べていたように、風景や人物の顔に何かを物語らせる為に余計な要素を削ぎ落としたはずだが、字幕の饒舌さが余計な要素に思えて仕方なかった。

また鏡を背負ったウェルギリウスや全裸でうずくまるダンテの存在が、ミニマムである事が目指されていたはずの作品に、観念的な要素を持ち込んでいたように思う。

風景それ自体や人物の顔それ自体から何かを感じ取る事が観客の特権であり、それらに予め大きな力が宿っていただけに、それを素直に差し出す方法もあったはずだ。

言葉(文字)による説明が、どうしてもメッセージとなってしまい、それに相応しい顔や風景を従属させてしまえば、それらが予め持っているはずの多様さが失われてしまった。

それでもなおメッセージからこぼれ落ちた固有の風景や顔が存在した事だけはしっかりと書き残しておきたい。