我が輩は、

麗しの新日本人として

「過去の日本には、世界に誇れる立派な人がいた!」

と国連本部の中心で叫ぶことができる。


その一人が、我が輩が創始した日本テコンドー協会の蹴武の型、

 青淵(せいえん)=渋澤栄一

である。

自分の会社の利益や家族のことしか考えない下劣な現代の経営者に

爪のあかでも飲ませたい

 公のためにつくした信義の実業家

である(いずれJTA本部HPで青淵命名の主旨を発表する)。


今日、録画しておいた

 NHK・BS「財閥豪邸物語」

を見て、

「さすがは渋沢栄一の孫だけのことはある!」

と、我が輩が生まれた45年前に

完結した人生からさわやかな風を観じた。


渋澤敬三(1896-1963)のことである。

彼は、

 日本資本主義の父

と尊称を受けた渋澤栄一の孫である。

栄一は、

「実業家はウソをつく江戸時代の商人とは違う。

 世のため人のため実業を起こして富国をはかり

 信義を重んじなければならない!」

と論語片手に明治・大正・昭和の経営者に信義を説いたことから

 論語資本主義

とか、

 道徳経済合一説

と呼ばれた日本が世界に誇れる実業家だった。


この偉大な祖父を持った敬三は、

もともと学者志望で二高に進学。

しかし、父の廃嫡を受け、

栄一から土下座され、

「実業界に入り、渋澤家を継いでほしい」

と懇願され、

東京帝大卒業後、やむなく実業の世界へ入る。


栄一の創業した第一銀行(現みずほ銀行)副頭取、日銀総裁を歴任。

しかし、学問の道も捨てきれず

出社前の朝6時30分から1~2時間ほど民俗学の研究に没頭したらしい。

彼がえらかったのは、

第一に、若い貧乏な学者の卵を物心両面で援助し育てたことだった。

民俗学の父・柳田国男、騎馬民族国家論の江上波夫等がいる。


第二に、民具等を収集し、私設博物館「アチック・ミュージアム(屋根裏博物館)」を創設、

これが後の日本常民文化研究所となり、1982年から神奈川大学に移管されている。

被差別民等のフィールドワーク重視、とりわけ民具の収集分析から民俗学の発展に寄与した宮本常一、

そして我が輩も学んだことのある巨人・網野善彦も

敬三に支援された研究者であった。


我が輩が、敬三の完結した人生からさわやかな風を観じたのは、

敗戦後の混乱期の彼の姿勢である。


我が輩は、

「中流なくして平和なし。

 中流なくして民主主義なし。

 中流なくして自由なし」

と確信している。

だから

敗戦後の日本でGHQ意志で断行された財閥解体と農地解放を高く評価している。

もし仮にこの政策がなかったら、

日本は、僅か100人にも満たない財閥家族という特権階級に経済を支配されている

階級社会のままであったろう。

つまり多くの中流意識を有する国民によって形成される

理想的とも言える現代日本はなかったに違いない。


さて渋澤敬三のこと。

敗戦後の秋、大蔵大臣に就任したわけだが、

預金封鎖、新円切り替え、財産税導入等の重大な経済政策を推進。

とくに自ら創設した財産税(最高90%の税率だった)により、

栄一から相続した豪邸を物納せざるを得なくなる。


財閥解体も、最後まで抵抗した三菱財閥の総帥・岩崎を説得。

自己も渋澤財閥の総帥でありながら、財閥解体実現に重要な役割を担うことになる。


ところがそういう敬三に同情したGHQの有力者ヘンダーソンが、

「渋澤は財閥ではない。

 たとえば、第一銀行の株は3%しか持っていないので支配していない」

と言い出したらしい。


これは祖父、渋澤栄一の偉大な姿勢で、

日本を代表する大企業500社の創立にかかわりながら株式所有を潔しとしなかったからだ。

つまり渋澤財閥を三井・三菱・住友・安田なみに巨大化しようと思えば可能だったのに

それをしなかったわけだ。


おそらくヘンダーソンは、そういう渋澤家の禁欲的な経営姿勢を知っていたのではあるまいか。

だから彼は敬三に

「渋澤財閥は、財閥ではない、という嘆願書をだせば除外してやる!」

と大蔵大臣の敬三に言ったという。


敬三が

「誰に嘆願書を出すんだ」

と聞いたら、

「渋澤敬三大蔵大臣宛だ!」

と答えたので

「いやだ!」

と拒絶した。

その結果、渋澤財閥は、財閥解体の対象となり、

それがもとで敬三は公職追放にもなったらしい。


敗戦後の日本人の上流階級に属する連中は、

新たな権力者GHQにとりいり

何とか自家の保身にやっきになっていたのに

渋澤敬三は例外だったというわけだ。


以下、その2に続く