数日前の葉山の森戸海岸。

折りたたみイスに座り、

足を海水につけながら

穏やかな海を

ただただ

ぼんやりと眺め、

哲学することが我が輩は好きだ、

ということはすでにふれた。


海辺は心がなごむ。

静かな波の音は感性を癒してくれる。

ふと目を閉じると、

母胎の中で泳いでいる胎児のような錯覚がおこる。


「人生はいい」

とひとりごとをつぶやきながら

静かにまぶたをあけると

いつの間にか、

幼児と母親が忍び寄ってきていた。


おそらく幼児は歩き始めたばかりだろう。

笑顔の母親が幼児と共に

サングラスをかけた我が輩の前を通り抜ける際、

「すみません」

と会釈した。


キャッキャッ

と海辺を歩き回る幼児と

その後を楽しそうに追う母親。

背中が笑っているのが、よ~くわかる。


そういう微笑ましい光景にふれながら、

ふと、

「どうして同じ人間の子に生まれながら、

 これだけの差がつくのだろう?」

と観じた。


TVニュースで知った2才児の餓死事件のことである。

母親が育児放棄した結果であるが、

哀れでならなかったのが、

餓死した子の兄にあたる5~6歳の幼子が、

「しんだのは、ぼくのせいだ・・・」

と警察官に言ったことだった。


この報道を聞いた途端、

「あぁ、この子は一生、トラウマになるに違いない・・・」

と目頭が熱くなった。


こういう事件が起こる都度、

国家も社会も

育児放棄した母親を処罰・糾弾するわけだが、

そうしたところで

死んだ子が生き返るわけでもなく、

自責の念にかられている兄にあたる幼児のトラウマが癒せるわけもなく、

育児放棄=「幼児殺人」がなくなるわけでもない。


我が輩は、

「子供は国の宝!」

だと信じてやまない。

日本政府が

「少子化対策!」

と言いながら少子化担当大臣を任命しているが、

それよりも、まず、

「すでに生まれて、

 生きているのに、

 生存の危機にさらされている幼子を

 駄目な親から守る政策が必要だ!」

と国会議事堂の中心で叫びたいのが硬派感傷主義である。