月曜日の朝、起きると

またもや首がきいている(武道家はけっして「痛い」とは言わない)。

現役時代、

組手で突きやパンチ、蹴りや膝蹴り等をくらいながらも、

かならず3秒以内に立ち、

「一度もKOされなかった!」

ことを小さな誇りにしてきたのだが、

その後遺症だろうと思うと同時に、

「男の勲章だ!」

と言い聞かせている。


しかし、5日後に、

第6回関西テコンドー大会を控えており、

「弟子達に元気な姿を見せねば・・・」

といつものように思い

早めにもとに戻すため温泉に出かけた。

当然、息子達も一緒だ。


行く先は、

豊臣秀吉や石田三成ゆかりの地・長浜の先、

 浅井(あざい)

の温泉・須賀谷温泉である。


彦根から湖岸道路を北進し、

長浜城を超えると右折し、

365号線をめざし、

関ヶ原とは逆の方向を目指すと目的地に着く。

彦根から約30km。1時間はかからない。


途中、織田信長(尾張)・徳川家康(三河)連合軍対

    浅井長政(北近江)・朝倉義景(越前)連合軍の

雌雄をかけた激戦・姉川古戦場を通る。

両軍の血で姉川が真っ赤に染まったらしい。


史実によると、

浅井の北近江兵はかなり強く、

織田の尾張兵はかなり弱かった。

当時、尾張兵の弱さは有名で、

「尾張3対他国1で闘わなければならないダギャ~」(信長は尾張弁)

そのため織田信長は、常に、倍以上の兵力で闘ったわけだ。

信長が鉄砲を大量に購入したのも、

白兵戦での尾張兵の弱さに起因しているのだろう。


では何故、織田・徳川連合軍が勝ったかというと、

浅井の援軍の越前兵の戦意が弱く、

逆に、織田の援軍の三河兵が強く、戦意も旺盛だったからだ。

結局、三河兵が、

尾張兵を押しまくっていた北近江兵(信長の陣まで迫っていたらしい)の側面を攻撃し、

形勢を一挙に逆転させたらしい。

(姉川古戦場には、大きな石碑が立っているだけだし、川の形も昔とはかなり変わっていると思われるが、

 駐車できるスペースもあるので戦国ファンなら一度は行くべきだろう)

いつものごとく、

「兵どもが夢のあと」

と観じた。


姉川古戦場を過ぎ、十数分走ると須賀谷温泉の看板があり、右折する。

途中、野生の猿がいたので、

「おっ、猿だ! アキ! ヨッチ! 見ろ!」

と叫んだのだが、

猿の方も、

「キキッ~、ニンゲンドモダ! ヨクミロ!」

指さしていたのが、

いささか気がかりで、何も言えなくて夏だった。


須賀谷温泉は、真っ茶色で、

「非常に温泉らしい!」

と数年前、幼かった明宗と訪ねたときに思った。

古びた温泉だったのが新築されており

「毛沢東もビックリ!」

だった。


温泉の効果は抜群で、

首の痛みがとれたわけだが、

どうしてここまで来たのかというと、

戦国時代、浅井家の家臣が、

戦を終えた後、

傷口を治すために

この温泉を利用したらしい。


というのは、この温泉から天を見上げると

山が見えるのだが、

そこに小谷城があり、

浅井の時代は、この付近一帯に、

家臣達が住んでいたらしい。

仏教の盛んな土地だったらしく、

古い寺があり、

我が輩の大好きな弥勒菩薩に似た

すばらしい仏像もある。


さて小谷城のこと。

一時は、織田信長が器量に惚れ込み

徳川家康同様、

否むしろ京へ兵をすすめるため徳川よりも重視した

 ー西の同盟者

として最愛の妹・お市を嫁がせた浅井長政の居城。

長政・市がもうけた娘の一人が茶々であり、

豊臣秀吉の一人息子を生む淀君。

末っ子の娘が、

再婚で徳川秀忠の室となり、

三代将軍・徳川家光の母となるおごう。

そして小谷城を攻め滅ぼしたのが、木下=羽柴=豊臣秀吉だった。


秀吉は、その功により、

信長から旧浅井領を受け取り、

この山城を嫌い、

信長の許可を得て琵琶湖畔に城を築き、

 今浜

という地名を信長の一字「長」をもらい

 長浜

と改名することで信長の機嫌をとったのは有名な話。


ちなみに、秀吉は、長浜の領地を視察中、

お寺で茶を所望し、

最初は、ぬるいお茶、

ついで、やや熱いお茶を少々、

最後に、熱いお茶をくんできた

旧浅井家の家臣の子・佐吉少年を自分の家臣にスカウトしたのも有名な話。

これが後の石田三成となる。

(長浜駅前に、そのエピソードを記念した

 秀吉・三成の銅像が立っている)


ここから関ヶ原は道一本でつながっており遠くはない。

石田三成が淀君が生んだ秀頼への忠誠心は、

秀吉への恩顧も当然であるが、

旧浅井家の家臣筋として

滅亡した主家・浅井の姫様=茶々=淀を尊んだのであろう。


だから、

我が輩史観によると

「関ヶ原合戦は、小谷城攻めから始まっていた」

と思う。


さて小谷城。

数年前、登った記憶をたどるとこうだ。


まず山を登るわけだが、

途中までは車の方が無難。

車をおくスペースが僅かにあり、

ひたすら徒歩で山奥のような城址を散策する。

あまり観光開発が進んでいないため、

城割だけは昔日の面影をとどめている。

我が輩は、

ただひたすら草深い歩いた。

奥へ、奥へと。

小谷城の本丸目指して。


柳生但馬のように

「神におうては神を斬り、

 仏におうては仏を斬る」

と言いたいところだが、

とにもかくにも

朝であれ、昼であれ、

小谷城址を一人で訪れるのは

いささか不気味である。

なんというか、

「浅井の怨念を観じる」

からで、

草陰から、

浅井の亡霊が斬りかかってきそうな

そんな雰囲気があった。


というのは織田信長の浅井長政に対する報復が

凄まじかったことを史実を通じて知っているからだ。


姉川の戦い敗北後、

浅井家は秀吉得意の調略により、

家臣団が続々と織田家に寝返り、急速に勢力が衰退。


織田信長によって越前朝倉が滅ぼされた後、

織田軍による小谷城攻めが始まりあえなく落城。

浅井長政の妻・市、3姉妹(茶々、初、おごう)は助命されたが

浅井親子は自刃。

幼い長男は源頼朝を助命して後年滅ぼされた平家の例もあるので串刺し。


普通、戦国時代といえども、復讐はこれで終わるのだが、

織田信長の浅井長政への恨みは根強く、

浅井親子と朝倉義景のしゃれこうべ(骸骨)に

漆をぬって

杯にし、

そこへ酒を注いで信長が祝宴をあげたのは有名。

織田の家臣団もさすがに目を背けたらしい。


浅井長政は、

妹が嫁いだ元義弟であり、3人の姪の父。

彼女らは信長の身近にいる。

普通、討ち取ったのだから、妹や姪達に配慮すべきところ

信長は長政の首をもて遊んだわけだ。

これほど残酷に扱ったのは我が輩の知る限り織田信長だけだ。


浅井家滅亡後、

その領地をそっくりもらった秀吉が、

小谷城を嫌ったのも、

単に山城という不便性だけではあるまい。

あまりにも凄惨な城攻めだったし、

しゃれこうべ事件もあったので、

日本人の嫌がる怨霊を忌避したのではあるまいか。


そういう例は近隣にある。

彦根城である。

関ヶ原後、井伊直政が

石田三成の領地と居城・佐和山城をもらい入城したのだが、

佐和山城攻めも凄惨を極めたため、

井伊家は、佐和山城を嫌い、

彦根城を築いている。


小谷城は、

怨霊オタクには、絶好の古戦場跡地と言えるだろう。

是非、一人で訪ねてほしい。

あぁ、一応、春は熊にも気を付けた方が良いかもしれない。