天才バカボンのパパの出身校のようなそうでないような

著名大学の教授の義父が

彦根に遊びに来たので

近江八幡まで車で案内した。


子供達も、あれほど遊んであげたのに、

またもや

「プール! プールと夏がく~る!」

と昔はやったCMのように騒ぐので、

家族も同乗している。


目指すは、

「厚生年金をなくすには、コーセイ! 労働ショー!!」

と叫んで年金をどぶに捨てた

愚考のモニュメント

 ウェルサンピア滋賀

の流れるプール

だったので我が身を恥じてもいる。


彦根から近江八幡までは約25km。

琵琶湖の湖岸を走る湖岸道路を南下するわけだが、

この付近には墓が多い。


妻「大学の同僚に「墓の研究」をしている人がいるの。

  その人の研究によると、

  日本人の

   先祖代々の墓

  というのは、昔からあったわけではないんですって。

  いつ頃から日本人に普及したのか調べているんですって」


義父「そうかも知れないね」


我が輩は

「白い犬の研究だね」

と我が輩ギャグでしらけさせてまじめに言った。


「明治維新以降、9割近くの一般大衆に姓を名乗らせたことと関係があるんじゃないかな。

 ここらへんの立派な墓は、日露戦争の戦死者の墓が多いけれど

 彦根藩ゆかりの兵隊は、必死で過去の汚名をそそぐためにがんばったと思うな。


 彦根は、維新の時に、安政の大獄を推進した大老井伊直弼の地元だがら

 薩長閥の強かった明治時代の軍隊では

 かなり差別されたらしいことが原因のようですよ。


 普通、戦死者の墓をつくるのは、親だから、

 自分よりも先に逝った子供の供養をするため立派な墓を建てたと思います」


確かに、江戸時代の約9割の日本人は、

姓を名乗れなかったのだから

(公家や武士階級を除き名字帯刀を許されたのは名主・庄屋・富豪とかの一部の人々)

そもそも

 ーなになに家の墓

という墓碑を建てることは許されなかったはずだ。

そんなことがばれたら

 切り捨てごめん

ということだって十分あり得るのだ。

それが封建制という身分社会の掟である。


とすると、姓がないのだから

 くまの墓、

とか

 与太郎の墓

と墓碑に刻まなければならないが、

そんなものを刻むことはなかったに違いない。

だいいち約9割の被支配階級の人々には、

墓碑を買う金も、刻む技術も、人に頼んで払う金もなかったはずだ。


これはあくまで我が輩の推測に過ぎないのだが、

江戸時代は、徳川政権が安定しており

徳川幕府が保護していた仏教が日本人に浸透していたと思われる。


そのことが何を意味するかというと、

姓が無かった人々も、

 戒名

というものをたいそう大事にしたということに他ならない。

(我が輩は断固拒否だが)

我が輩の研究客体でもある被差別部落の人々もそうだった。

浄土真宗が急速に普及した一要因として

他の仏教が帰依を許さなかった被差別部落を受け入れからだと思うのだが、

彼らの墓碑に刻まれたのは名ではなく、

 犬、猪、猿

等の動物の漢字が入った戒名だった。

それなのに大部分が文盲だった被差別部落民の先祖達は、ありがたがった、らしい。

それはひとえに、苦しめられた現世がやっと終わり

幸せな死後の世界を夢見たからに相違ない。

最底辺の人々ですら戒名を大事にしたのだから

それ以外の農・工・商の日本人も

現世の名よりも、死後を保障する戒名を重視し、墓碑に刻んだのではあるまいか。

正確に言うと、今の石でできた墓碑に刻むのではなく、

長細い板に戒名を書き込み、土葬したところに刺して立てただけだった。

だから嵐や雨等によって飛ばされてしまい

埋葬した人々がこの世から去ると

人々の記憶から消えて跡形もなく消えてしまったのではないか。


つまり江戸時代以前の墓碑(板)には、

坊主に金を払ってつけてもらった戒名を刻んだわけで、

 ーなになに家の墓

と先祖代々の墓に葬られたのではなく

死者ごとに埋められたと思われる。


公家や武士階級以外で、

 先祖代々の墓

というのが物理的に成立しない理由がある。

それは江戸時代は、火葬ではなく土葬だったからだ。

現代の墓のように火葬した骨だけを箱につめる、

そんなことは昔の日本人はしなかったはずだ。

土葬した先祖が眠るその上に子孫を土葬する、

そんな不遜なことをしたら

「毛沢東もビックリ!」

は疑いもない。

(例外はあるかも知れない。

 土葬した先祖の遺骸の原型がなくなり、子孫を葬るときに気にならないという場合もあるのだが)。


土葬した先祖代々の墓をもつためには、

まとまった土地(領地)が必要で

約9割近い被支配階級の人々が

そんな土地をもてるわけがない。

(ただし例外がある。山だ。ひとつの山を一族が所有または入会地等の既得権として死者を埋葬できたようだ。

 韓国の田舎にも山一つがすべて河氏の墓、というのはめずらしいことではない)


ではどうして戒名ではなく

 ーなになに家の墓

が登場したのかというと、

おそらく明治新政府が敢行した仏教弾圧政策の影響だろう。

これは徳川幕府が仏教を保護し、

仏教界も徳川の治世に有利な教義を普及したからで

前政権の政策を新政権が否定するのはどこの国でもあることだ。

仏像もたくさん破壊され、

「壊してもいいか!」

「銅像!」

と言ったかどうかはわからないけれども、

貴重な文化財をたくさん失ったはずだ。

つまり明治維新以降、戒名の意味が薄れたのではあるまいか。


それにだ。

明治維新以降、流行ったのが戦死者の栄誉を讃える立派な墓の建立だ。

明治維新の志士を葬った京都の霊山(土葬)。

戊辰戦争の戦死者(土葬)、

西南戦争の戦死者(土葬)、

日清戦争の戦死者(おそらく火葬または遺髪等の身体の一部・遺留品)、

日露戦争の戦死者(同上)等々。


注意すべきは、これら戦死者の墓は、

国家的に奨励され、

日清戦争以降は、遺族が、なかんずく親が、

自分の子供達のために、

かなり無理をして立派な墓を建立したはずだ。

そしてその墓には、戦死した我が子の姓名が刻まれた。

大日本帝國陸軍少尉等の階級付きで。

やがて我が子の墓を建立した親自身が死に、

戦死した息子の墓かその近隣に葬られ、

 なになに家の墓

という現代風の墓の原型が形成されたのではなかろうか。  

ふと思い出したのだが、

日露戦争の英雄にして

司馬遼太郎の『坂の上の雲』の主人公、

秋山兄弟は、

松山藩の士族の出だが、

秋山家の先祖代々の墓には葬られてはいない。

秋山好古の墓は単体で存在し、

親の墓は数十メートル離れたところにあった。


我が輩は、

会津若松藩の松平家の先祖代々の墓所(会津)や

長州藩の毛利家の先祖代々の墓所(萩)等を

見学したことがある。

これほどの名門も墓石には戒名のみ。

一目見ただけでは誰の墓かわからなかった。


ところが、明治維新の英雄達を葬った霊山の

桂小五郎(木戸)、坂本龍馬等は、

戒名でなく姓名が刻まれている。


やはり、明治維新以降、

日本人の墓石に刻まれる字は、変化したのではないかと思われてならない。

戒名を刻まない歴史上の人物の墓は、

それ以外の人々に影響を与えたに違いない。

そして日清・日露戦争の戦死者の姓名を軍隊の階級と共に刻む流行と、

火葬の普及で

現代風の先祖代々の墓の原型ができあがったのではないかと思うだ。


書き終えた我が輩。

人は何故墓を建てるのか?

を哲学しながらも

我が輩は何故ブログを書くのか?

を改めて哲学してしまった。


だが、推論に過ぎない結論を締めくくりに書く。

日本人の約9割は、そもそも先祖代々の墓を持たなかった。

墓碑に姓名を刻んだのもそれほど古い伝統ではない。

その4に、以下続く