車を入り口前において下車。

受付が駐車場の中間にあったので移動。

すると

「あっ、河野さん!」

と本人を発見したので、

尾崎のご両親を呼んだ。

「尾崎さ~ん! こちらに来てください!!」


「あっ、どうも!」

「この前はどうも。

 こちらは尾崎のご両親です」

「はじめまして河野太郎です」

「あっ、どうもはじめまして尾崎です」


我が輩は懇親会費を3名分支払って会場へ。

テコンドー演武関係者のため無料で入れるのだが、

やはり払うべきものはきちっと払うのが硬派感傷主義である。


会場は、盛況。

一つの会場では支持者が入りきれないため、二つの大宴会場を借りているらしい。

そのため国政報告は、それぞれ2回行うらしい。


我が輩は、平塚市有権者を主流とする会場へ。

国政報告が終われば直ちに立食パーティーにうつれる状態。

壇上には、平塚市長、茅ヶ崎市長、大磯町長、県議会、市議会等が陣取り、

一人づつ簡単な紹介。

まず河野太郎後援会会長が挨拶。

次いで河野さんの国政報告。


我が輩は、完璧に克服したと思っていた遺伝の痛風の逆襲にあい

椅子に座って4歳の次男と拝聴。

河野さんの演説を生で聞くのははじめてだった。

「なかなか力強い演説だなぁ」

と感心しながらも、

同じ1963年(昭和38年)生の同世代であるのだが、

貧乏移民二世の我が輩とは、

まったく好対照の生い立ちに、

ふと、感傷にひたってしまった。


「彼は、太郎、という名前を付けられたのだから、

 生まれたときから政治家になることを宿命づけられたのだろう」

そう、祖父や親等が国会議員の場合、

長男が生まれると将来の選挙を見越して簡単な名をつけることが多いらしい。

それは将来、長じて孫や息子が選挙に出た際、

選挙民に名前を覚えてもらい、

投票用紙に間違わないで書いてもらおうという配慮らしい。

最近の親は、やたらと難しい名(漢字や読み方等)をわが子につけるのだが、

国会議員という明確な進路を定めた一族は、そういうことは絶対しないのだ。

典型的なのは、太郎と一郎。これに一字漢字を足す場合もある。

民主党代表の小沢一郎や、前自民党幹事長の麻生太郎は、その典型。

小泉純一郎や橋本龍太郎の元総理大臣もそういう事情にある。


最近、河野さんのホームページを見たのだが、

彼が子どもの頃、父親(河野洋平・現衆議院議長)から、

食事の際、

「醤油の量が多すぎる!」

と叱られた、と書いてあった。

これはおそらく、戦国大名第1号の北条早雲を初代とする

後北条の三代目の故事に由来するのではあるまいか。

北条家は小田原城を本拠地とする関八州の覇者(小田原は河野家の選挙地番)。

三代目の北条氏康は傑出した人物で、

同世代の武田信玄、上杉謙信、今川義元等と互角に戦った有能な武将だった。

ところが四代目・氏政は、プライドだけは高いが、出来があまりかんばしくなく、それが悩みの種だったらしい。

(実際、四代目が隠居でありながら豊臣秀吉に最後まで抗戦を主張したため北条家は滅亡した)

ある日、氏康は、四代目の氏政の食事のしぐさ(汁をご飯に二度かけた)を注意深く観察しながら

家臣に大略次のように嘆いたという。

「大将たる者は、食事の時でさえ、必要な分量を的確に判断すべきである。

 毎日、食事をしているというのに、二度も汁をかけるとは。

 あのような食べ方では、先が思いやられる。北条家もわしの代限りか」


「河野さんは、生まれたときから政治家になることを宿命づけられ、

 その相応の教育を施されてきたのだろう。

 三代将軍の徳川家光が、20歳前後で将軍に就任した際、諸侯に対して、

  ー余は、祖父家康(初代将軍)や父秀忠(二代将軍)とは違う。祖父も父もその方達と同格だった。

    しかし、余は違うぞ。余は生まれながらの将軍である!

 と言ったが、

 さしずめ河野さんは、

  ー生まれながらの政治家!

 なのかも知れない」


河野さんは、謙虚だし、礼儀も正しい。

アメリカ留学の影響だと思うが、かなりフランクで、接しやすい。

スキャンダルとも無縁。

我が輩の周囲のエリート達は、皆、異口同音に、

「河野太郎は、よく政策を勉強している!」

と褒め殺している。


まぁ、そういう三拍子も、四拍子も揃っているのだから、

国会議員で有る以上、

「将来の総理大臣!」

を目指すのも当然と言えば当然で、

国政報告でも、

「河野太郎は、総理大臣を目指しております!」

と宣言した。

つまり河野太郎という政治家は、

「国会議員になるだけ、大臣になるだけを目指している政治屋とは格が違う!」

といえるのだろう。


ただ、

「総理大臣になるためには、<これ>を克服しないとなぁ」

と、えらそうに分析するのが硬派感傷主義である。

(<これ>は、機会があったら、本人に言おうと思っている)


さて、河野さんは、

一番大事な国政報告が終わり、

乾杯の音頭で立食パーティが始まって10分程度過ぎた頃、

壇上に再度登った。

日本テコンドー協会の黒帯道衣をまとった尾崎圭司とともにである。


河野さんは、大略次のように言った。

「みなさま!

 ここにいる尾崎圭司君は、平塚出身の将来のK-1MAXのチャンピオンです。

 私は、尾崎君には、世界チャンピオンにもなってほしいと思っております!

 河野太郎同様、尾崎圭司の応援も、何卒、よろしくお願い申し上げます!!」


我が輩は、

「余は満足じゃ!」

だった。


通常、千人近い支持者との会合では、

1000回以上、頭を下げ、お礼をいい、

軽い陳情を受け、世間話をしなければならないわけで、

とてもとても、他者のことなど配慮する余裕はないはずなのだが、

河野さんは違った。


我が輩は、

河野さんと尾崎を試合を含めて3回ほど引き合わせ、

今回の演武に関しては、

演武そのものを実演することは提案したが、

それ以外のことは、河野事務所と尾崎に一任しており、

当日、何時から、どの場所で、どういう演武をするのかさえ知らなかった、

というよりは、

「我が輩のコーディネートはここまで。

 後は、好きなように自由にやっていただきたい」

というのが硬派感傷主義である。


したがって、河野さんが、ここまで配慮してくれるとは、予想していなかった。

なので

「河野さん! 心から感謝します。ありがとうございました!!」

と心の底から思った。


「勝負は七分勝ちがベスト。

 それ以外のことも七分満足すればベストだ。

 ここまで配慮してもらった以上、後援会の件は、後日にしよう」

と考え、次男の手をひきながら、

新幹線に乗って彦根に帰るべく小田原へと向かう硬派感傷主義だった。