2日連続で妹尾将吾と長い電話。
会話の冒頭はかならず
「真希はどうだ?」
である。
妊娠8ヶ月目。
残り2ヶ月で新しい生命が生まれてくるのだから
まことに喜ばしく、
また楽しみでもある。
出産について話している最中、
「あぁ~、もう11年以上も月日が流れたのか」
と長男出産のことを思い出してしまった。
と同時に、だいぶ前の高知へ出張の際、
高知港南支部の朝比奈が、
「我が輩硬派感傷主義の定番の
<以下続く>
は、いったいいつ続くのでしょうか?」
と質問されたことを思い出してしまった。
「あとは自分で想像しろ!」
と笑いながら答えたわけだが、
リクエストもあるようなので、
「生まれる前から愛していました! 立ち会い出産奮闘記その4」
の、<以下続く>を書くことにする。
11年程前、東京都大田区の自宅から通える距離で、
立ち会い出産が可能な病院は、二つしかなかった。
二つとも車なら30分もかからない大森である。
一つは日本赤十字病院。
ここは母方の祖母(95歳)が脳死状態で搬送された臨終の病院だった。
祖母が運ばれた大部屋には、似たような老人が5名ほどおり、
夜な夜な
「う~う~」
とすすり泣く声が鳴り響く病室だった。
祖母は脳死ではあったが、心臓が激しく動いており、
我が輩を含めた孫4名が夜な夜な交代で付き添っていた。
それが4日は続いただろうか。
祖母以外の老人には、朝晩誰一人、訪ねてはこなかった。
そういう状況だから若い医者と若い看護婦が、
我が輩がいることに気付かないで、
ある老人を検診しながら
「今日、終わったら飲みにいかない?」
「わぁ~、本当ですか! うれしい~!」
と若者らしい会話をした。
終わり頃、我が輩のことに気付いたらしく
二人ともバツの悪い顔をして病室を去った。
「まぁ、医療の現場とは、こいういものかも知れない」
と観じた。
設備も古い。
もう一つは民間の病院で、だいぶ前に人間ドッグを受けたことがあった。
この民間病院は、医者も看護婦も事務の人も、
当時としてはめずらしく、
というよりは
「気持ちの悪い程親切だったあの病院か」
という印象があった。
設備も新らしかった。
硬派感傷主義は、天の邪鬼である。
親切かつ最新設備の民間な病院を選ばず、
祖母の臨終の場となった設備の古い日本赤十字病院を選んでしまった。
それは我が輩の意思であると同時に妻の意思でもあった。
以下続く