子ども達にせがまれて

 ー極楽湯

という大型銭湯へ行った。


風呂上がり。

TVニュースが、

 ーフセイン元イラク大統領の死刑が執行されました!

と報道していた。

のみならず、

死刑直前のフセインの画像が公開されており、


(やれ人権だ、やれ人道だ、

 とはいうものの、

 結局、おろかな生物=人間を駆り立てるのは、興味、

 とりわけ他人の不幸、

 さらには、栄華を極めた人間の哀れな末路なのかもなぁ)

と硬派感傷主義。


脱衣所で騒いでいる子ども達をしり目に、

我が輩が思い出したのは、

ソ連を崩壊に導いたゴルバチョフのペレストロイカの影響により、

1989年末に起こったルーマニア革命時、

即決即日に公開銃殺処刑されたチャウシスク(元大統領)夫妻だった。

なにせ銃殺間もない二人の死体が、ほぼ世界中のTVで放映されたのだ。


チャウシスクも、

 ーアカい独裁者

で、北朝鮮の金日成とは最も親しい間柄だったらしい。

当然、北朝鮮の支配者層は、恐怖にかられたといわれている。

なぜなら、

 ー明日の自分の運命

かも知れないからだ。


チュウシスクに比べれば、

フセインは死体をさらされなかった分だけマシなのかも知れない。

両者は独裁者の末路を辿ったことは共通するが、

明らかに異なるのは、

チャウシスクは、ルーマニア人による独自の革命勢力によって処刑されたのに対し、

フセインは、イラク人による独自の憲法制定権力ではなく、

実質的にアメリカ政府によって処刑されたということだろう。


アメリカ政府がフセインを裁くための裁判官や検事などを

 ー反フセイン派

で固めたのは、

最初から、

 ーフセインを処刑する気だった

のだろう。


ところがだ。

中東で突出した

 ー軍事大国イラクを独裁するサダム・フセイン

を生んだのは、実はアメリカ政府だった。


1979年、イランの親米王朝が打倒されたイスラム革命が起き、

シーア派が実験を握ると、

サウジアラビアやクエートなどの支配者層(スンニ派)が、

自国に革命が波及するのを怖れて恐怖し、

石油利権で癒着しているアメリカ政府などに、

 ーイラン制裁!

を強く要請したことはよく知られている。


そこでアメリカ政府が選んだパートナーが、

イラクのフセイン政権だったわけだ。

彼がサウジアラビアやクエートの支配者層と同じスンニ派だったことも

重要だったに違いない。


その頃、イランとイラクとは、

石油資源をめぐる国境問題で小競り合いを頻繁に起しており、

 ー戦争をけしかける大義名分

があった。


レーガン時代、

ラムズフェルド(イラク戦争時の国防長官)らが、

アメリカの特使としてイラクに派遣され、

フセインと会談し、

米、サウジアラビア、クエート等による全面支援を約し、

化学兵器の使用(クルド人に使用)も容認したといわれている。

現に、化学兵器の原料は、アメリカとイギリスから輸出されたそうだ。


結局、イラン・イラク戦争は、

複雑化し、

国連が介入して和平=引き分けとなったが、

 ー軍事大国イラクの独裁者フセイン

はそのまま残ってしまった。

つまりフセインは、

 ーアメリカ政府が育てた独裁者

ともいえるのだ。


アメリカ政府は、

自分たちが育てた独裁者を

 ー言うことを聞かず生意気になったので殺した!

と言えなくもない。


我が輩は、

 ー自国のことは自国民が自律的に解決しないとどうにもならない!
と考えている。

明治維新が成功した最大の原因は、

外国の軍事勢力の介入を阻止した点にあると考えてもいる。


ひるがえってイラクをみると、

外国の軍事介入でフセイン政権を打倒したのであって、

イラク人自身が自律的に現政権を樹立したわけではない。


アメリカ政府も、そろそろイラクから撤退するであろから、

これから真の意味で

 ー自律的な新生国家イラク

の産みの苦しみを味わうに違いない。

つまり内戦の激化だ。


おそらくイラクでは少数派でありながら、

フセイン時代に恩恵を受けてきたスンニ派と

多数派のシーア派との間に、

テロの連鎖による内戦が勃発するだろう。

そこに複雑にからむのが、クルド人だ。


おそらくクルド人指導者層は、

イラクからの完全独立を狙う独立戦争を起すに違いない。


こうなるとEU加盟が厳しくなっているトルコが黙ってはいないはずだ。

なぜならトルコ国内には、

多数のクルド人が存在するからで、

イラクのクルド人との連帯が予想されるからだ。


仮に、こうなった場合、

アメリカ政府が行ったイラク戦争は、

 ー結局、新たな戦争の火種を中東に残しただけ

と見るのが、

硬派感傷主義である。