我が輩の認識が正しければ、

あらすじは、次のようになる。


主人公・筆子は、

男尊女卑の明治時代に、海外へ留学した才媛である。

日本の女子高等教育の草分け的存在である津田塾創始者の津田梅子とともに、

 ー良家の女子高等教育

に情熱を持つ教育者であり、

欧米人からは、

 ー猿まね

と嘲笑されたが、

明治の日本人からすれば

 ー文明開化の象徴の一つ

として、

北朝鮮のように自画自賛されている

 ー鹿鳴館

でピアノを演奏するピアニストでもあった。


エリートとも結婚し、

当時の上流階級の女性達から

 ー羨望のまなざし

でみられる

 ー憧れの存在

だったらしい。


ところが、出産を契機に状況がかわる。

3女に恵まれるのだが、

長女と三女が知的障害者(次女は死亡)なのだ。


マスコミは、これを報道したという。

筆子は、羨望の対象から一転、

 ー憐れみの対象

になってしまったという。


やがて夫が死亡。

夫の実家からは、

 ー障害者の子が二人もいるのでは・・・

と離縁される。


当時の日本は、

 ー富国強兵政策

よろしく障害者は、徹底的に差別され、隔離された。

そのため、障害者を身内にもつ家は、

肩身の狭い思いをしたのだ。

つまり、

 ー障害者用施設を無視していた東横インの社長

のような奴が殆どだったのだ。


天国から地獄に墜ちたともいえる筆子は、

自殺も考えたらしいが、

キリスト教に帰依することでかろうじて救われる。


ここで筆子に希望的な助言をする人物として登場するのが、

明らかに

 ーライバル明治大学の「豪華建物(名称不知)」に対する対抗心

   (法政大出身者の教職員には、

     ー俺達が学生の頃は、法政大が明治大より上だったのに!

    というプライドが強い、と、我が輩は観じていた)  

で建設した

 ー法政大学ボアソナード・タワー

に名を残している

 法学者ボアソナード

だった。 


(ほぅ、ボアソナードは、立派な人物だったんだなぁ

 あのタワーで企業家史研究会や大学院の企業家史を抗議したっけ)

と懐かしがる硬派感傷主義。


筆子は、ボアソナードの助言にもとづき

 ー障害者教育

に関心をもち、

 ー日本における障害者教育の先駆者

の一人で、

滝乃川学園の創設者である年下の男性、

 石井亮一

の理念に傾倒して行く。


やがて二人は結ばれ、

夫婦で

 ー障害者教育に人生のすべてを捧げる、

というストーリーだった。


火事で学園が焼失し、

生徒が6名ほど焼死するという不幸に遭遇。


しかし、大正デモクラシーの影響下、

我が輩が研究客体としている

 ー日本屈指の信義の企業家 渋沢栄一(後日紹介)

らが、

募金10万円(現在の価値で4千万円)をよせる。


(やはり渋沢はえらい!

 昔の日本には、こういう立派な企業家がいたのだ!

 新日本人として誇りに思う!!)

と硬派感傷主義。


滝乃川学園は、再建されるが、

問題が生じる。

 ー卒業後の仕事がない!

ということだった。


そこで亮一が、

 ー子ども達が働けるように農園をやろう!

と、現在の東京都(本当は三多摩)国立市谷保に

学園を移転して農業を始めた。


余談。

この国立市(国分寺と立川の間にあるので「国」と「立」をとって命名した)谷保も、

我が輩の思い出の地だ。

我が輩は、

極真空手からテコンドーに転向した際、

さくらグループの谷保寮に入寮し、

ソ・マンチョルと同じ部屋に住んでいたからだ。

独身寮の隣には、

副社長の黄正明氏(黄秀一の父)や西直紀氏(現ITF北朝鮮派会長)らも住んでいた。


当時は、アットホームな雰囲気があり、

スイルやさくらグループの子弟が、テコンドーの少年部に入門していた関係で、

良く遊んで上げた記憶があり、

(まぁ、良い思い出でだよなぁ)

と今でも思っている。

現在は、

 ー創業者の墓

になっているらしいが。


次いで、谷保には、一橋大学があり、

おそらく

 ー滋賀県最強の女

であろう

妻かおるゴンを騙した場所でもある。

当時、彼女は、ピチピチの

 ー 一橋大学生

で、我が輩のようなワルと出会ったため、

水洗トイレ状態になった由緒正しい場所なのだ。

心は、ウンが流れる。


しかし、我が輩は、今日まで、

滝乃川学園の存在を知らなかったのだ。

(修行がたりんなぁ)

と我が身を恥じてしまった。 


悪戦苦闘の末、

多額の借金をかかえながらも石井夫妻は、

障害者教育に人生を捧げて行く。


しかし、亮一(享年70)が他界し、

筆子は、学園閉鎖を真剣に考える。

だが、

 ー志を貫徹する!

ことを決心した筆子は、

滝乃川学園を最後まで維持させながら、

82歳の生涯を閉じる。


石井夫妻の言葉が泣かせる。

 ー子どもと共に学び、

   共に食し、

   もし糧なくば、共に死せん


筆子のニックネームは、

 ーおかあさん

で、誰も「先生」とはよばなかったそうだ。


NHK「その時歴史が動いた」は、今回、よくがんばった。

最近、タネがつきると、

 ーアンコール

と称して、

繰り返し、昔放映したものを放映したり、

新資料もないのに、

 ー昔、放映した番組のヤキ写しのような番組

を放映するのだが、

録画機能が発達している昨今、

 ーそういう番組を放映することは、まったく無意味だ!

と、批判的だった。


だが、今回の放映内容が上出来だったので、

「許したる! 受信料ももちろん払います!!」

と、天の声を発する硬派感傷主義であった。


このブログの読者に教員がいるのであれば、

是非、学生に見せるべきだ!

ピュアな子どもの頃には、

石井夫妻のような使命感をもった美しい人生、

JTAのいう

 ー蹴美な人生

の模範を紹介することで

 ー多様な人生観を育むべきだ!

と我が輩は考えている。