水曜日の早朝。

我が輩は、

JRに拉致監禁されているわけではなく、

新幹線に乗車している。


米原から岐阜羽島間。

熱い眼差しで車窓からみつめる古戦場がある。

  ー天下分け目の関ヶ原古戦場

だ。


今日は、大変、良い思いをした。

 ー関ヶ原の濃霧

を体験したからだ。


この濃霧こそが、

関ヶ原合戦の序曲となった。


大日本帝国参謀本部編纂『日本の戦史第6巻 関ヶ原の役』

には、次のように表現されている。


徳川家康側の東軍

「先鋒諸隊の先頭は、まさに夜があけるときに関ヶ原に到着した。

 しかし前夜からの雨はしとしとと降りつづいてやまず、

 そのうえ、深い霧に閉ざされて、一寸先も見えない」


「東西両軍の総計十四、五万にもおよぶ大軍勢は、今や関ヶ原に相まみえた(略)

 午前七時を過ぎても、まだ戦闘は開始されなかった(略)

 午前八時ごろ(略。福島正則隊は)宇喜多隊を射撃した。

 宇喜多秀家は前隊、本隊をさらに五隊に分けて繰りひろげ、この攻撃を防いだ。

 霧はまだはれていない」


「家康が桃配山前後の配置を決め終わったとき、前方に大きな喊声があがった。

 家康はその戦況を眺めようとしたが、まだ霧が深くて、

 旗の進退を見るすべもなく、ただ銃声と鬨の声を聞くだけだった。

 とくに大きな喊声が三度あがるのを聞いたが、

 敵か味方か、どちらがあげたものともわからなかった」 


つまり関ヶ原の濃霧により、

東西両軍は視界を遮られ、尋常ならぬ状況にあったようだ。

合戦が始まっても、ほぼ事情は同じで、

味方が勝っているのか、負けているのかが、よくわからなかったからだ。

これも関ヶ原の地形的な特徴といえるのだ。


関ヶ原の合戦は、

旧暦の9月15日午前8時前後に開戦した。

これを太陽暦(西暦)になおすと10月21日頃となる。


今日は西暦12月13日ではあるが、

昔ならこの一帯は、雪が降っていたはずだ。


(我が輩が子供の頃、米原・岐阜羽島間は雪のため新幹線が度々徐行していた。

 この頃、この時期に雪は降らなくなったが、きっと温暖化等の影響だろう。

 今日は、関ヶ原合戦時と同じ、雨が降り終わった早朝。

 時間は、午前7時40分頃。関ヶ原開戦前後の午前8時とほぼ同じ。

 おそらく今日は、関ヶ原合戦時の気温とほぼ同じで、

 この濃霧も、当時とほぼ同じかも知れない!)


と都合良く解釈しながら、

 ー強者どもが夢の跡

をながめながら、

ウキウキするのが、

硬派感傷主義だ。