「一曰和以貴為無 為宗」

(一いわく、和をもって貴しとし、さからうことなきを宗とす<和を、やわらぐ、と解釈する説もあり>)」


我が輩は、

古代朝鮮(現韓国)からの渡来人を重用した聖徳太子が定めたと伝承されている「憲法十七条」の第一条

(上記憲法が聖徳太子死後に完成した等の理由により、聖徳太子が定めたものではないとする説もあり)

から、それぞれ一字を二人の息子の名として頂戴している。


息子達の姓は、

当然のことながら、

先祖代々の姓であり、生命の源である水をあらわし、雄大な川を意味する

「河(カワ。韓国語では<ハ>と発音する)」

である。


息子達の名には、かならず、

太陽(陽)と月(陰)をあらわし(これは韓国の国旗の陰陽につらなる)、

我が輩の名の一字でもある

「明」

(親の一字から命名するのは、日本では普通であるが、韓国・朝鮮にはない。したがって日本式の命名)

をつけている。


そして

長男の「明宗(あきむね。韓国語では、ミョンジョンと発音する)」の「宗」、

次男の「貴明(よしあき。韓国語読みでは、グィミョンと発音する)」の「貴」

を上記の聖徳太子由来の「憲法十七条」の第一条から頂戴しているのだ。

趣旨は、兄弟が「和」を大切に、争わず、仲良くしてほしいということである。

(子どもは3名欲しい。3番目は可能ならば女の子。「和」をつけたいと思っているのだが・・・)


河明宗よ! 河貴明よ!

命名した我が輩が、

お前達(および未だ見ぬ孫、おそらく見ることの出来ない曾孫・・・も含む)に期待するのは、

子々孫々先祖を忘れず、

父が生まれ、

母の母国であり、

しかもお前達が生まれた故郷日本で、

韓系日本人として胸を張って正々堂々と生きろ!

ということだ。


長じて、いかなる道に進もうとも、

自己の先祖の出身地が、朝鮮南部の韓国であることを子々孫々忘れてはならない。

先祖を否定することは、

己に流れている「血」を否定することであり、

それは己自身を否定することに他ならないからだ。


戦前、祖父母の代で日本に渡り、大変な苦労をしたのは事実だが、

過去の<負の遺産>を恨み続けるよりも、

それを許す方が、

遙かに倫理的かつ道徳的に優れている、

と、父は考える。


父の代で、

すばらしい日本人と接することができたという意味で幸運に恵まれ、

日本に生まれたことを肯定できるようになり、

そして感謝し、

過去の不幸に呻吟するよりも、

未来の幸福をより確かなものにするために、

出身民族を卑下否定するような従来の後ろめたい<帰化>ではなく、

先祖伝来の民族姓で、

正々堂々と<日本国籍を取得した>ことを努々(ゆめゆめ)忘れるではない。


古代日本に土着した渡来人達が、

先進文明文化の伝道師として尊敬され、重用されたように、

運や占い、宗教などの超自然的なものに身を委ねるのではなく、

お前達が、

己の才覚と努力次第で自己実現を果たすことができるのならば、

それが父の幸せであり、

母の幸せでもある。


移民の子孫が、

出自で差別されることなく、

能力と努力次第で、

いくらでも自己実現を果たせるという事実を示すことこそが、

日本が何人たりとも平等に機会を与える、

という優れた国であるということを世界に知らしめる最善の道であり、

そのことが日本の国際化に寄与するのであり、

それこそが故郷日本のためになる!

と、父は信じる。


そして多くの韓系日本人による善行の積み重ねこそが、

先祖の出身地韓国のためにもなる!

と、父は考えるのだ。


この精神こそが、

我が輩の子孫への孝である。