我が輩が、気に入っている司馬遼太郎の名文がある。

「人間は、他の人間にとって、しばしば存在そのものが、巨大な情報の発信体である場合が多い」。

それが1860年に徳川幕府が日米条約批准のため米国に派遣した使節団だったという。

船の名を咸臨丸という。


司馬によると、「江戸時代は精神面でいえば、二つの民族にわかれて」いたという。

一つは当時の日本人の7%程度をしめていた武士階級。

「貧しくても誇り高く、形而上的に物を考え、

 喜んで死ぬわけではないにしても、

 いつでも必要とあらば死ぬということを人生の大前提にして代々その精神を世襲してきた」。

もう一つは、その他大勢の「町人的合理主義をもつ人々」だという。


いずれも文字を必要としていたわけだが、

武士階級は、武士としての「存在が必要とするために書物を必要とした」のに対し、

町人階級は、「存在よりも目的のため」=「商業従事のため」(今風に言えば金儲けのため)

に文字を必要としたという。


当然のことながら、いわゆる「司馬史観」の主人公は武士階級だ。

(「町人的合理主義」というものは、敗戦後、経済経営だけに特化した観のある日本では、

 うんざりするほど蔓延しており、格別論ずるに値しなかったと思われる。まったく絵にならないのだ)


さて、司馬によると、

初めて日本人(というよりは武士)を見たニューヨークのアメリカ人は、

遣米使節団の武士的な「挙措動作、品の良さと、毅然とした姿に」感心し、

「異文化とはいえ、大変上質なものを感じた」という。


米国人を感心させた「上品で凛々しい」武士達の

「気品のある言葉、態度、お行儀、それに教養」は、

「京都の御所ではなく、江戸の山ノ手の門地の高い旗本屋敷で」創られたものだという。


この遣米使節団のナンバー3が、小栗上野介忠順(おぐりこうずけのすけただまさ)だった。

小栗家は、徳川家康が三河という一地方大名に過ぎなかった頃からの家来で、

神田駿河台に屋敷を構え、家禄は代々2500石(この石高の直参旗本の家格は外様小大名と同等)。

小栗は、門地が高かったため、

立身を求める必要性もなく、私心もないため、徳川幕府は安心して重職を任せたという。

勘定奉行(今の財務大臣)、陸軍奉行(戦前の陸軍大臣)、軍艦奉行(戦前の海軍大臣)等を歴任している。


後年、日露戦争の英雄になった連合艦隊司令官・東郷平八郎が、

戦後、明治維新勢力に処刑された小栗の遺族を訪ね、

 ー小栗殿のおかげで勝つことができました、

という主旨のお礼を述べたが、

それは小栗が、幕末に、近代国家に不可欠な海軍を充実させるため、

フランスの著名なツーロン軍港をモデルにした大規模な造船所の基礎を、

無名の寒村・相模国横須賀村(現神奈川県横須賀市)に建造したからだ。


これが明治時代に海軍工廠となり、日本における造船技術発展の母胎となった。

司馬は、小栗の決断を評し、当時の「国家主権には、商船への保護能力の実体として、

商船という手形の信用の裏判として海軍を備えることが必要だった」と指摘している。


小栗の政敵は、勝海舟。

二人がことある毎に対立したのは有名。

実は、この二人は、遣米使節団の咸臨丸に同乗していたのだ。

ちなみに福沢諭吉(慶応義塾創始者)も木村摂津守の荷物持ちの下男として同乗しており、

そのことが、後年、福沢が発表する「痩我慢の説」執筆の動機の一つになっているといわれている。


さて小栗と勝は、

鳥羽伏見の戦いの敗北後、江戸に攻め寄せてくる薩長軍に対する徳川の対応についても対立した。


小栗は主戦論を説いた。

実は、小栗は横須賀ドッグの基礎が完成した際、

「あのドッグが出来上がった上は、たとえ幕府が亡んでも、土蔵付きの売家という名誉を残すでしょう」

と言ったらしい。

つまり小栗は、政敵の勝同様、徳川幕府が亡ぶことをだいぶ前から予想していたのだ。


しかし、小栗は主戦論だった。

「両親が病気で死のうとしているとき、もうだめだと思っても、看病のかぎりをつくすではないか。

 自分が(徳川幕府に)やっているのはそれだ」

つまり小栗が言いたかったのは、

武士ならば、

「薩長から挑戦されてなぜ戦わずして降伏するのか、戦って、心の花を一花咲かせるべきではないか」

というものだ。


司馬によると、後年、これを知人から聞いた勝海舟嫌いの福沢諭吉が、

かつて咸臨丸に上司として同乗した幕臣の小栗などを偲び、

同じく咸臨丸に同乗していた幕臣の勝が、

徳川幕府を倒した明治政府に仕えたことを非難すべく執筆した「痩我慢の説」で、

「勝がやった江戸開場というのは、あの病人はもうだめだからほうっておく、という立場」だと評したという。


小栗は、江戸城内で行われた会議で、主戦論を説き、次のような軍事作戦を披瀝した。

これを実施していれば薩長軍を壊滅させることができたと言われている。

まず東進してくる薩長軍の先鋒隊は、無傷で箱根を通過させる。

次いで、駿河湾に日本最強の徳川海軍を終結させる。

そして東海道を東進してくる後続の薩長軍めがけて射撃し、寸断してしまう。

その上で、すでに箱根を通過した薩長軍を孤立させて徳川陸軍で殲滅する、

というものだった。



ところが徳川慶喜が、恭順を決めており、小栗の主戦論は拒絶された。

徳川慶喜が立ち上がろうとすると、

小栗は慶喜のハカマの裾をつかんだと言われている。


小栗は三河以来の直参旗本、そして何よりも武士として説くべきことは説いたが、

採用されなかった以上、わがことは終わったと悟り、

江戸を去り、上州(現群馬県)の知行地に帰った。


司馬によると、明治新政府の良さは、

維新成就後、徳川家およびその家臣団の罪を一切問わなかったことだが、

「小栗に対してだけは例外で、小栗の言い分もきかず、また切腹の名誉も与えず、ただ殺して」しまった。

つまり打ち首にしたのである。

なぜかといえば「小栗が、おそろしかったのです(略)これを野に放っておけばどうなるかわからない、

という恐怖が、新政府側にはあった」と指摘している。


我が輩の記憶が正しければ、司馬の『龍馬がゆく』等の小説では、

坂本龍馬の先生である勝海舟との対比で、小栗はあまり評価されていなかったと思う。

むしろフランスに国を売る怖れのあった人物という描写ではなかったかと記憶している。


けれどもこのブログの基である『「明治」という国家(上)』では、

小栗に対して「明治の父」の一人として高い評価を与えている。

ふりかえってみれば、小栗も立派だった、ということか。


小栗、勝、そして福沢。

奇しくも咸臨丸に同乗した傑物達のエピソードの終わりは、福沢と勝との<対決>でしめくくられている。


明治24年頃、福沢は、小栗らを偲んで、勝を誹謗した「痩我慢の説」を執筆したが、発表しなかった。

福沢は一方的に勝を批判するのはアンフェアだと思ったらしく、

使いを勝のもとにやり、

勝を誹謗した「痩我慢の説」を

勝本人に見せることで、

勝の返事を求めたという。


すると勝から福沢に返事が来た。

「自分が天下のためにやったことの責任は、自分一人にある。

 その批判は、他者にある。

 ですから、あなたの文章を他の人々にお示し下さっても結構です」


その後、勝と福沢とのやりとりの噂が広まり、注目されて発表されるのだが、

それは福沢が執筆してから10年後だったという。


小栗も、勝も、福沢も、立派だったと、我が輩は思うのだ。

まさに男の美学があるではないか!