琵琶湖畔のさざ波街道を南下し、

琵琶湖大橋から湖西道路を疾風のように通り過ぎると

京の都が我が輩を待っている。


太秦(うずまさ)は、聖なる地だ。

広隆寺が我が輩を誘うのだ。


『日本書記』によると、広隆寺は、

秦河勝(はたの・かわかつ。朝鮮系渡来人として日本に土着)が、

聖徳太子から賜った百済の仏像を本尊に建立した寺だという(西暦603年)。


いずれのワープロでも「くだら」と打てば、朝鮮三国時代の「百済」が表示される。

「ひゃくさい」ではないのである。

一説には、朝鮮語の「クンナラ(大きな国)」が訛って「くだら」になったと言われている。


秦河勝は、機織業を典型とする(当時としては)先進技術の伝道者だった。

そのため彼及びその一族は、

聖徳太子等の時の権力者から重宝され、民からも尊敬されて、

この太秦一帯を中心に活躍するわけだが、

この史実は、京都に土着し、

友禅染めや西陣織り等の機織業を生業とする在日韓人達の心のよりどころでもあった、

と、我が輩が大学院時代に実施した聞取調査で韓人古老達が語ったことがある。


我が輩は、1300年以上も前の史実を「心のよりどころ」とする人々の心性が理解できる。

けれども、秦河勝由来の太秦や広隆寺が、我が輩を誘引するわけではない。


実は、我が輩は、多神教主義者であり、三つの信仰対象がある。


第一に、弥勒信仰(みろくしんこう)である。

敬虔な信徒とは言い難いが、

日々、己の愚かさを恥じ、不遜不徳を諫めながら、生ある幸運に感謝するため祈りを捧げている。


だが、いずれの仏教宗派にも属してはいないし、今後もその予定はない。

神仏は、人々の心の中にある、と思いたいからだ。


我が輩は、太秦・広隆寺に保管されている弥勒菩薩(みろくぼさつ)を拝むため、

毎年数度、この地を訪ねているのだ。


弥勒菩薩は美しい。

髪型から推論されているモデルは、古代の未婚の女性だという。

だから男である我が輩が惹かれるのかも知れない。

拝んでいると雑念が払われ、静寂のうちに時が止まるのだ。

この世に存在する「美」というものの極致が弥勒菩薩像なのだ。


数十年前、あまりの美しさに感動した学生が、

弥勒菩薩像に飛びついてしまい仏像の一部を壊してしまった事件があったが、

彼の衝動的心性も、我が輩は十分理解できるのだ。

それほど我が輩にとって弥勒菩薩は、究極の美なのだ。


椅坐しながら右足を上げ、

くるぶしあたりを左膝の上におき、

右手の肘を立てて、

美しい指で頬づえをつきながら、

神秘的な微笑みをなされている弥勒菩薩。


我が輩が天から定められた寿命を終える際、

可能ならば、慈悲の仏、慈尊の弥勒菩薩に抱(いだ)かれたいと思うのである。


前述したが、我が輩は、4人の親族の死に接し、

たくさんの恩師、友人、知人、弟子、その他の死を目撃してきた。

年齢を考えると、今後も増え続けるだろうし、

もしかすると、明日にも我が輩自身の天寿がつきるかも知れないのだ。


要するに、死は誰しも身近にある。

だからこそ我が輩は、弥勒菩薩に祈る。


だが、死という現実から逃避するため弥勒菩薩に祈るわけではない。

死を意識することで、生が永遠のものではないことを認識し、

だからこそ日々を大切に過ごさなければならないという戒めのために祈るのだ。


だが、他律的で受動的な現世利益を期待して弥勒菩薩に祈るわけではない。

自律、自立、自主的な人生を歩むため、

日々の己の言動をみつめなおし、

不遜、不徳、不義など、邪悪な芽を事前につむために、祈るのだ。


だが、苦しい時だけ、楽しい時だけ弥勒菩薩に祈るわけではない。

我が輩の脳が思考し、心臓の鼓動が動き、

己の足で大地を踏みしめながら力強く歩むことが可能な限り、

我が輩は、日々祈り続けるのだ。