序ー平成自助論


古城の桜はまばゆいばかりだ。

琵琶湖からの春風も心地よい。

京橋をわたる我が身の軽さよ。

400年の重みを感じさせる石垣の上、

内堀にいまにも沈みそうな柳のような大桜が、

我が輩の頭上で揺れている。


まぶしい春の日差しを浴びながら

古城の石垣に腰をおろして足を組み、

江戸時代、小江戸と呼ばれた彦根の町並みを再現したキャッスル・ロードを、

ただぼんやりと眺めている。


我が輩は、ヤクザでも、マル暴のデカでもないが、サングラスを好む。

彦根城を訪れた観光客が、

我が輩を避けるように桜を楽しんでいるのがわかるのだが、

我が輩は、けっして不愉快ではない。


我は我、他者は他者。

他者の目に我が輩がどのようにうつろうとも構わないではないか。


我が輩は、自律的に進路を選択し、

       自立的な生計をいとなみ、

       人生を自主的に歩もうとしている。

だからこそ、我が輩は、自由なのだ。

何人と言えども、この尊い自由を侵させはしない。


だから我が輩の表情には、充実感がある。

そう、たとえていうのなら、

名画「太陽がいっぱい」のラストシーンでアラン・ドロンが見せた微笑みそのものだ。

客観的には、顔面登録そのものだが、

主観的には、How many いい顔なのだ。


目をつぶり、耳を澄ましてみると、

古城の風情には、不釣り合いな機械音が響いている。

 ー何故、人は、現在の自分を撮ろうとするのか?


ふと、

 ー永遠の命が保障され、

  若さが未来永劫約束されたものであるのなら、

  何人も写真を撮らないのではないか?

と、論理飛躍を得意とする<我が輩哲学>をしてしまった。


脳裏には、すでにこの世を去り、臨終に立ち会った祖母、父、兄嫁、次兄の顔が浮かんでは消えた。

 ー人は、近親者の死に直面した際、悲しみながらも自分自身の寿命を逆算する、

と我が輩は思う。

こう哲学し、このブログを語りかけている間も、

我が輩は確実に、

我が輩が天より与えられたであろう寿命を消耗しているのだ。


それが現実だとすれば、

42歳という若年ではあるが、

今まで歩んできた人生を通じて培われた<我が輩哲学>を

「平成自助論」という題名で吐露しても良いのではないか、と。

幸い育ちの悪さを反映して涵養された独自の感性が我が輩にはあるようだから。


我が輩は常に思う。

我が輩は、何故、この世に生を受け、

       人としてのいとなみを歩み、

       そしてやがて死んで行くのかと。

答えなどでるはずもなく、

死を怖れる我が身を恥じながらも、

この瞬間、この瞬間を、

いつ天命がつきようとも、

悔いが残らないように、

精一杯、

我が輩なりのベストをつくして生きよう!

と、言い聞かせている。

「平成自助論」は自問自答のブログである。