2006年3月のある日、

我が輩は、いつものように新幹線で米原まで行き、琵琶湖線に乗り換えて彦根で降りる。

可愛い子ども達が、我が輩を待ちわびている(と信じている。男親は悲しい・・・)自宅に帰るためだ。


彦根の自宅から出講している高崎経済大学までの距離を換算すると

毎週約1200km近い道程を往復していることになる。


彦根は寒い。寒いというか風が痛い。

東京大田区生まれの東京大田区育ちのシティーボーイを自負する我が輩には、なかなかの修行なのだ。

なにせ彦根駅から自宅までは、チャリンコで約30分もかかり、

雪とか雨とか降られると中学生時代に働いていた新聞配達少年時代を思い出してしまうのだ。


なんだかんだと東京の本部事務所までは片道約4時間(往復8時間)、

大学講義のあるシーズン中だと高崎経済大のある高崎駅までやっと着いたというのに、

さらに30分に1本しかないバスなので片道約5時間(往復10時間)はかかる。


朝高時代から慣れ親しんだ山手線は2~3分間隔、

地元の京急線普通電車も6~10分間隔で次の電車がくるのだが、

田舎はそういうわけにはいかない。

一本乗り遅れると20~30分は待たなければならず、

米原に停まる新幹線ひかりも1時間に1本しかないので、

乗車予定電車を乗り遅れると1時間以上のロスという計算になる。

だから我が輩は、短距離競走選手や競輪選手ではないのに、ダッシュするのだ。

しかも交通コストは、年間で約120万円はかかる。


だから自宅から出て彦根駅にやっとのおもいで到着した際、

(はぁ~、まだ彦根か・・・)

と、ため息をついているのだ。


帰路。

いつものようにチャリンコにまたがり、気を取り直して

(これも人間修行の一環だ!)

と我が輩自身を励ましながら、ペダルをふむと、すぐ彦根城につく。


幕末の安政の大獄を推進した大老・井伊直弼が、

不遇な少年青年時代を過ごした埋れ木舎を通り過ぎる頃、

枯れ果てた木に緑の枝葉をつけている男達がいた。


(彦根市の観光課かな? それにしても季節はずれだなぁ)

と、その日はその程度しか思い浮かばなかった。


翌日、法政大学の卒業再試試験の結果を彦根郵便局から書留郵便で送付し、

彦根城近隣の彦根市立図書館に借りていた書籍を返しに行こうとした。


彦根城は城内に道路が整備されており、車の往来が可能だ。

我が輩は、結構この道が好きで、遠回りでも城内の道を好んでとおる。


(ん? 何事だ!)

大勢の人が誰かを待っているようだった。


気になったので返却ポストに書籍を入れた後、図書館の駐車場に車を止めて現場に行ってしまった。

どうやら映画の撮影らしいのだ。

(何の映画だろう? 監督は? 主演は?)

と思っていたが、初老のおじさんが自慢げに説明してくれた。


「キムタクが主演で、今、キムタクが来るのをスタッフが待っているんだ」

(キムタクって何? 新種のキムチか?)

と、我が輩は、一瞬思ってしまったが、集まってきた観衆が、

「木村拓哉はどこどこ云々」

と大声を上げたり、携帯電話で話していたので、

ようやく芸能界音痴の我が輩も、

(確か、スナップ、いや、待てよスワップ、ちょっとまてよ。一字で意味がだいぶ違うような・・・)

わかっようなわからないような状態に陥ってしまった。


何せ我が輩は、

中学生の頃に解散したキャンディース(わかる人は年齢がばれる)以来、

芸能界の情報は、思考停止状態で、ほぼストップしているのだ。


木村拓哉(有名人なので敬称略)を待ちわびている映画のスタッフに目を転じてみると、

見覚えのある監督がいた。

山田洋次(同敬称略)だった。


我が輩は、山田さんが撮った「男がつらいよ」シリーズが大好きなのだ。

全作、すべてをビデオに録画しているのだ。


(山田監督か~。いったいどういう撮り方をするのか?)

と俄然興味を持ち、この名監督の撮影指揮を見学しようと思った。


我が輩は、観衆の一人になった。

まだ彦根は寒い。

周りはほぼ若い女性と子ども連れの主婦や中年女性だ。つまりキムタクの大ファンらしい。


しかし、キムタク本人が、なかなか現れない。

1時間程度待っても来ないので、スタッフはしびれをきらして食事をとることにしたらしい。

山田さんも席をはずしたので、

我が輩も、彦根キャッスルホテルで昼食をとることにした。

軽い世間話の最中、仲居さんがオフレコで教えてくれた。

「昨日、うちのホテルに山田監督とキムタクが泊まったんですよ。

 今日の早朝から撮影しているはずですけど、お客さんは見られましたか」

「ええ、まぁ(そうか、朝早くから撮っているのか)」


我が輩は撮影現場に戻った。

観衆がどんどん集まってくる。女達が興奮しているのがわかる。

母親に無理矢理連れて来られたような乳児や園児達が、ポカ~ンと口をあけている。


キムタクは見あたらなかったが、6m程前にお目当ての山田さんがいた。

ロマンスグレーで渋いし、かっこいいし、哀愁がただよっていた。

(これじゃ~、女優達がほうっておかないんじゃないかなぁ~)


我が輩はふと、知人の芸能関係者から聞いた話を思い出してしまった。

 ー 昔 山田洋次と「寅さんの永遠のマドンナ」役を演じている大女優とが、

    恋愛したが破綻寸前となり、

    悩んだ大女優が、渥美清(寅さん役。同敬称略)に相談したため、

    渥美が山田に詰問して熱くなり、寅さん役を降りる、とまでもめたことがあった、と。


真偽の程は定かではないが、

(まぁ、別にいいじゃないか。男と女が一緒に仕事してお互いが好感を持ち、やがて好きになり、

 そして愛し合い、さらには別れる。それが有史以来の男女のいとなみというものだ)

と我が輩は思った。


カーテンをかけている大きなワゴン車が我が輩の前に止まった。

女達が絶叫した。

 キャー、キャー、キャー

(猿?)

我が輩の4m前に立ったのが、サムライ姿のキムタクだった。

(なかなかの優男だなぁ)

   

しかし、なかなか撮影が始まらない。

山田さんがキムタクに演技指導をしていた。山田さんの方がキムタクよりも額の分だけ背が高い。

(彼、170あるのかなぁ~)


続いて脇役を呼んで演技指導。

カメラやライト係に指示。顔が険しい。

(その程度のことは任せればいいのに)

と、ドシロウトの我が輩が思うほど、小道具の位置とか脇役の衣装のズレ等の些細な注文をつけていた。


山田さんやスタッフの真剣な眼差しとは対照的だったのが、集まったキムタクファンだった。

ただ単に、キムタク見たさなのが、よ~くわかる。

我が輩の隣りに立っていた中年のオバハンが仲間に言った。

「(ロケに使っている枝葉をつけた木の下を指さして)あそこは、あたしたちの聖地だわ! キャッ!!」

我が輩は腕組みしながら思った。

(聖地エルサレムをめぐってパレスチナ人およびイスラム教徒とユダヤ人は血を流しているのになぁ。

 日本は平和だよなぁ~)


スタッフが大声で言った。

「みなさ~ん。撮影は一切禁止です。協力おねがいします」とか

「録音テストをしていますので、お静かにおねがいします。

 お子様をお連れの方は、声をださないようお願いします。

 無理ならばすみませんが、撮影を見学することはできません!」


いよいよリハーサルが始まった。

シーンは、彦根城の堀でつりをしている3人の子ども達を見かけたキムタクが、

邪魔をして小石をなげたところ、子ども達に「やめろよ~!」と注意され、

キムタクがふてくされ、家来らしき町人(男はつらいよの名脇役の男優)が、それをたしなめる、

というもの(に見えたが)。

時間にして僅か1分あったかどうか。


何回も何回もリハーサルをしていた。おそらく1時間近くは入念にチックしていただろうか。

山田さんのOKがなかなかでないのだ。

(やはり名監督は違うなぁ~)

と、我が輩は思わず感嘆してしまった。


カメラ・リハーサルの際、スタッフが大声で観衆に注意した。

「これからカメラ・リハーサルに入ります。

 小さな音も入ってしまいますので、お静かにお願いします。

 ・・・」


「カメリハ! スタート!!」

 カッ

ところがだ。敵は思わぬところからやってきた。

国宝彦根城のお堀に住んでいるファシストのように全身真っ黒な白鳥だった。

どうやら餌をくれる管理者と間違っているようだった。


「あぁ~」

シナリオに、白鳥が登場するシーンはない。

しかもだ。春か秋頃の季節を想定しているシーンなのに、黒くなった白鳥は論外だ。

スタッフがあわてて白鳥を追っ払った。

山田さんの表情は、左斜めしか見えなかったので何とも言えない。

よくあることなのかも知れない。


我が輩は、ふと、ビートたけし(同敬称略)が、初めて本格的に映画に出演した

大島渚監督の「戦場のメリークリスマス」の撮影の際のエピソードを、

確か深夜ラジオ番組オールナイト日本(だったと思うが)で語ったことを思い出した。

「・・・ヤモリが出てくるシーンがあってさぁ。

 大島監督がヤモリに怒鳴るわけ。

  ーカットカット、動くな! 動くな! 

 ってさ。ヤモリが言うこときくわけないじゃん。笑えたよなぁ~ まったく・・・」

(という内容だったと記憶している)


警備スタッフが三度観衆に注意した。

「これから本番にはいります。写真撮影はすべて禁止です・・・。」

とほぼさきほどと同じだった。

日本人は、納得していなくとも、表情にはださない沈黙が得意だ。


「本番! スタート!!」

 カッ!

という音と共に本番が始まった。


ところが誰かが携帯電話で写真を撮ってしまった。こういう音も屋外ロケでは入ってしまうらしい。


再び本番。

子どもが泣いてしまった。


再々本番。

くしゃみをするマヌケがいた。


再々々本番。

若い女のファンが、「タクヤ~」と叫んでしまった。


(チミ~、 それじゃファンじゃなくて フアン(不安)だよ)

そこには「小説朝鮮高校物語」に登場する「朝鮮人インテリ・ナルシスト」のような我が輩がいた。


本番はなかなか決まらない。

キムタクのスケジュール上、撮影は30分後の4時00分には切り上げないといけないらしい。

山田さんが、険しい顔をしているのがわかる。


結局、我が輩は自宅に帰ることにした。

暇でもないのに4時間近くも観戦したことになる。

(1分のワンカットに4時間か~。やはり映画は手間と暇がかかるな。

 4時間もあれば、東京に帰れるのになぁ~)

と、200人近い観衆の中で、場違いなことを考えながら感傷にひたっている我が輩がいた。