漢の武帝の時代、司馬遷(しば・せん。前145~前86)という正義感溢れる聡明な男がいた。

司馬は、父から太史令という官職を世襲して武帝に仕えながら、

父の遺志にもとづき漢およびそれ以前の中国の歴史を編纂せんとする使命感に燃えていた。


ある日、司馬に不幸が襲った。武帝の逆鱗にふれ、死刑判決を受けたのである。

当時、死刑を免れるためには、二つの方法があった。

ひとつは、多額の罰金を払うこと。

もうひとつは、男性器を切り取り去勢する宮刑を願い出ること、

である。


司馬は悩んだ。

死を恐れたわけではない。

中国の歴史書を完成させたいという使命感が強かったからである。


しかし、大金はない。

そこで司馬は、当時、最も屈辱的な刑罰であり、生き恥をさらすことになる宮刑を選んだ。

彼は、当時、「人ではない」と軽蔑された宦官(かんがん)になったのである。


司馬は、自分が何故、生き恥をさらして生きているのかを、史上有名な言葉で吐露している。


「人もとより一死あり、あるいは泰山より重く、あるいは鴻毛より軽し」と。


つまり人は誰でもいつか死ぬ運命にあるが、その死に対する評価に差がでるのは、

人生の動機の違いによるものだとみなした。


司馬によると、死刑判決を受けた際、プライドを守るために潔く死んでしまえば、

後世に歴史書を残すことができなくなり、それが無念であった、

と言い残している。


やがて司馬が完成したのが、歴史的な大著『史記』である。

司馬は、『史記』を通じて後世に対し有名な問いかけを記している。


 ー天道、是か非か

  (お天道様は正しいのか? という司馬遷の疑問。

   天道とは「天の働きを人格的にとらえたものであり、世界全体の秩序を司ると考えられていた」

   天道が「正しく働いてくれると信じるからこそ、人間は安らかに毎日を送ることができる」と

   人々は信じているわけだが(『中国の思想 別巻 中国の故事名言』徳間書店参照)、

   歴史では、かならずしも正しい者が勝利をおさめているわけではなく、

   正当な評価を受けているわけでもない、という後世に対する問いかけ)。

   

ほぼ2千年後、日本に司馬遷にあやかりたいという意欲を持った歴史小説家が登場した。

司馬遼太郎である。

周知のとおり、これはペンネームで、その意味は、


 ー司馬(遷)には遼(はるか)に及ばない日本の太郎

(遠いところにある日本の、司馬には遼に落ちます太郎です)


なのだそうだ。


我が輩は、朝高2年の後半から司馬遼太郎の著作を読みあさった歴史文学少年だった。

国電山手線品川駅から赤羽線(現埼京線)に乗り換える池袋駅まで、

気に入った文章や登場人物達の言葉にラインマーカーの塗りながら、

感想を本に書き込み、その箇所だけ後日ひろえるよう付箋をつけたものだ。

(こういう姿勢は、42歳になった今でも続いている)。


そしてかなり

 (あ~ぁ、<大丈夫(立派な男)の生き様>とは、かくなるものか!)

という薫陶を受けたような気がする。

 

周知の通り

①革命を予言するが、革命成就を見ることなく非業の最期を遂げる者

②革命を成功させた者、もしくは被革命勢力として立ちはだかる者で、いずれも非業の最期を遂げる者

③革命に参加はしているが、重要な役割を演じていないのに長生きして栄達する者

に分けられるはずだが、


我が輩は、管見の限り、

司馬遼太郎の美学とは、①と②に該当する


時代に殉じた男の生き様の描写=男の美学の描写


であると考えている。

当然のことながら、そこには勝者も敗者もない、

と考えている。


①は、吉田松陰と高杉晋作を描いた『世に棲む日々』、

    坂本龍馬の『竜馬がゆく』、


②は、村田蔵六=大村益次郎を描いた『花神』、

    西郷隆盛と大久保利通を描いた『翔ぶが如く』、

    土方歳三を描いた『燃えよ剣』

だと考えている。


③に該当する者が、明治維新の元老と言われて栄達した長州の伊藤博文、山形有朋、井上馨らであろう。

彼らは司馬文学では脇役として登場しているが、

本人達が

 ー自分は、命をかけて徳川幕府を倒した明治維新の英雄であります、

と長州弁で胸を張って自負するほどの評価は与えられていない、

と思われる。 

我が輩は、前々から司馬遼太郎が描いた群像を整理したいと思っていた。

司馬遼太郎の著作に登場している歴史上の人物を、

男の美学をまっとうした豪傑達の生涯を

我が輩なりに解釈しているのが、このブログ・司馬遼太郎の美学である。