見た
読んだ
知ってる

というところまでな私。

インプットとアウトプットの循環というのができていないことがスタンダードだなぁと…


知識はストックしているだけでは
活かされない。

“動“に転換されて、初めて、

生きることになるなって思った。

私の娘のすごいなぁと感じるところは、

“知っている“を通り越して、
人に教えられるくらいに理解して話せるようになっていくところ。

説明できるくらい、落とし込めるところ。

話の引き出しが多くて、それをスムーズに適材適所に楽しい雰囲気で出せるところ…

私は、軽〜く、知ってる、くらいまでしか頑張れなく、

線を越えていくことが苦手。

なんでだろう…


モノも、同じだなぁと思った。

知識は、居着いてしまうと、固着化された考えに支配されがちになったり、

モノも居着くと、固着して軽やかでない感じかする。


あっち行ったりこっち行ったり、あれ買ったり、これ買ったりすることで、

様々な考え方や、モノの特徴特性を知ることができて、
多様性が身について、見識が深まるのかもなと。


インプットされたままの知識や、モノは、ストック。

アウトプットされた知識やモノは、
フロー。

知恵に転換され伝播される。


インプットとアウトプットの循環が、

相関関係にあるし、深みにつながる気がした。

知識と得た知恵が循環する

モノとモノの良いところが発揮されて循環していく。

入れたら出して循環することで、新たな経験や知恵が、より強く自分に入る。


流れることのない池の水は淀んでしまうけれど、

常に流れる川の水は澄んでいる感じ。


流れる、循環する、というのは、

自分が動くことで生まれる。

この流動性が、生きる泉⛲な感じがする。


机に張りついて本を読み漁り、思考にふける学者のようになるより、

私は、あっちこっちに視点や考えを移動し、視点だけではなく、体もあっちこっちにさまよい落ち着かない人で良いのかも。

流れていく。

でんと構えて落ち着いて動かないモノより、

常にちょろちょろ変わるほうが、好きなのかも。

こういう自分の感覚に気づいた。

なーんだ、飽きっぽいって良いのかも笑

飽き性だからこそ、軽やかに、「インプットとアウトプットの循環」をしていけるようになる人なのかもって思えた。