あさま山荘事件が1972年の2月下旬。
山岳ベース事件が1971年12月下旬から2月にかけての話です。

そう考えると12月上旬というのは、いよいよ集団リンチがはじまる準備段階になります。この頃になると、処刑される人達のきっかけになった問題が起ります。その名も「水筒問題」。(水筒問題については次回詳しく説明します。)

いよいよ、赤軍派と革命左派が共同軍事演習を行なうことになり、合併して、連合赤軍になろうという話が出てきた最中の事でした。

赤軍派は山岳に詳しい植垣氏がベースを設定していたので、登山上級者が登るような山にベースを設定していました。それに対して革命左派は女性も多く、ちょっとしたハイキングに登るような山の登山道に近い場所にベースを設定していました。

その為、革命左派の移動の際は、荷物は少なめに、水は沢沿いや現地で調達をしていたようなので、険しい山に入り水筒を持ち、道無き道を切り開いて歩くという概念が無かったのです。

合同演習は、初め革命左派が設定した場所でやる予定でしたが瀬木らの脱走で、ベースに位置がばれないように植垣氏が設定した山奥のベースで行なわれることになりました。

革命左派は先発隊として、警察に顔が割れてない大槻節子さんと杉崎ミサ子が植垣氏と合流して、道中を確認します。後日、永田洋子、坂口弘、寺岡恒一、吉野雅邦、前澤虎義、岩田平治、金子みちよの合同演習の参加者がベースに移動します。

その時に革命左派は水筒とおにぎりを用意しておらず、赤軍派のベースが険しいところにあると認識をしておりませんでした。

植垣氏は革命左派の荷物を持つのを手伝ったり、赤軍派の仲間から作って貰ったおにぎりを革命左派に渡すために何度も山を往復します。その都度革命左派のメンバーに「水筒持ってないの?」と質問しました。すると、革命左派のメンバー達は「無くても頑張る」といいます。植垣氏は、こんな装備で山を登るなんて、本当に革命を考えてる人達なのかと疑問に思ったそうです。

革命左派の多くのメンバーが息を上げ、ゆっくり登る中で、植垣氏と一緒に革命左派の荷物も何度も往復して運搬する革命左派のメンバーがいました。それが大槻節子さんでした。

前回も書いた通り、女優の能年さんの様な女子力がある美貌が売りの大槻さんですが、学生時代は体操の選手で、革命左派の腕相撲大会ではハンデあるとは云え、男性を倒すくらいの腕力がありました。そんな彼女の働きを見て、植垣さんは恋に落ちたそうです。

大槻さんは男性に非常に人気があり、告白される事は日常茶飯事で、今まで革命左派の渡辺正則(交番襲撃事件で服役中)、向山茂徳(印旛沼事件で処刑)らと付き合っていました。その当時はフリーだったようで、行動力がある植垣氏(逮捕時の写真を見ても男前です。TOKIOの長瀬さんみたいなルックスです)に惚れたようで、自然に恋人の様な感じになりました。二人は一週間近い間に夜は接吻をしたり体を触りあったり、朝は、一緒に顔を洗ったり、水浴びしてたようです。

ここまでなら、青春群像劇みたいで良かったのですが、この大槻さんの恋愛に奔放な行動は、後に永田の逆鱗にふれることに成ります。(また植垣氏もこの事で自分がいつ粛清に遭うのかと疑心暗鬼になることになります。)

次回は、赤軍派から提案された、革命左派の水筒問題とそれに対抗して、革命左派は赤軍派の遠山問題について対抗して対立します。そして、ウチゲバに結びつく考え方が森と永田を支配しはじめます。まだまだ続きます。あさま山荘への道のりは結構険しいですね。。。