1971年の10月の話になります。
この期間は、永田と苦楽を共にしてきた瀬木が彼女である松本と、革命左派の丹沢ベースから逃亡する1ヶ月間ですが、その1度目の逃亡(失敗)、2度目の逃亡の間に、赤軍派の植垣氏が、爆弾作りの伝授をしに革命左派の丹沢ベースに来て、あの永田洋子と金子みちよさんに痴漢をするという事件が起こります。これは後に植垣氏が処刑されるんじゃないかと切実に考えるようになる事件です。まずは。植垣氏のここまでの活動を振り返りたいと思います。

植垣康博氏1949年1月2日(65歳)。静岡県の金谷町生まれ。父親は農場長で、町の有力者の一人でした。当時の静岡は、貧しい農村が多く、彼の父親は、国から地域の農業の指導の為派遣されてきたエリートだったようです。普段の朝食が、近所の子供たちからすると、誕生日パーティーに感じる位の生活をしていたそうです(東京では普通の家庭でも田舎ではそうでは無かったようです。)親の言われるがままに地元でも一番の中学・高校を卒業します。両親が教育熱心な割りに本人は、鉱物を調べたり地質調査するのが好きで登山ばかりしてたそうです。学校では勉強をせずに図書室に篭り独学をして、弘前大学の理学部物理学科に入学します。なりゆきで民青(共産党の青年部)に入り、左翼活動をはじめますが、当時の共産党は暴力も多く嫌気が差し、敵対する新左翼運動と学生運動に没頭します。1969年に弘前大学のバリケード封鎖の理学部のリーダー的立場になります。(その時の先輩で全体的なリーダーでガンダムのマンガ家安彦良和先生がいます。もし、彼が代表として逮捕されなければ、植垣氏と共に連合赤軍の山岳ベースでの合宿に参加したかもしれません。)バリケード作戦が沈静化すると、赤軍派のリーダー格であった青森出身の梅内恒夫に誘われて上京。(梅内はその後、赤軍派の主流派から孤立して行方不明になります。)梅内が、行方不明になると、別な集団の第四インターの運動に参加して新宿で逮捕されます。1970年に出所すると、赤軍派のメンバーとして横浜の寿町で活動をします。そして、早大生であった山崎順を仲間にしたり、爆弾作りの名人と仲良くなったり、機関紙の工場で若い女性4人と共に共同生活をします。その後、坂東隊に入り仙台や横浜で「M作戦」(銀行強盗)を成功させます。他の部隊が逮捕される中で、坂東隊だけが捕まらなかった理由としては、植垣氏の作戦の立案力に加えて、坂東の指揮力と柔軟さだと思います。植垣氏の作戦は、逃走ルートに道なき道を使ったり、子供の頃の登山経験からきていると思います。ですが、たまにしくじることもあり、それを坂東が柔軟な考え方で臨機応変に対処していたようです。1971年10月当時は、赤軍派と革命左派が連合赤軍として合併に向けた話し合いの最中で、革命左派側から、「民衆から支持を得られないM作戦(銀行強盗)は、やめてほしい」と赤軍派に言われていた時期で、植垣氏が丁度暇をもてあましていました。また、前々回お話した植垣氏の彼女であった玉振佐代子が、獄中から「絶縁状」(これは植垣氏に捜査が及び逮捕されるのを心配しての行為とも受け止められます)をおくり付けてきたことにより、ふさぎこみになってた時期でもあったそうです。

こういう理由で植垣氏は革命左派に爆弾作りのレクチャーをしに行きました。この人達、とても恐ろしい事をしているにも関わらず、学生のサークルのように和気藹々としていました。革命左派でも植垣氏の武勇伝は、玉振佐代子と同じくらいに伝わっていたので、女性活動家らが一気に集まってきて、植垣氏は一躍ヒーローの様にもてはやされたそうです。(植垣氏がイケメンであることもあると思います。また、後に彼女になる大槻節子さんは、当時、東京で活動をしていました。)赤軍派は女性メンバーが殆どいなくなり、幹部連中の奥さんばかりなので、植垣氏は楽しくてしょうがなかったみたいです。夜寝る時もテントや廃ロッジの床で男女構わず密着しながら寝袋で寝ることにも赤軍派では考えられなかったそうです。そして、その時が起こります(NHK風に・・・。)植垣氏が寝に廃ロッジに入ると、永田洋子と金子さんのところしか空いてなかったのです。植垣氏は「これはまいったなぁ・・・。」と思いました。革命左派でも、この2人は美人な方だったのです。そして、2人が眠りについたころに顔や頭、お尻などを触りまくったそうです。翌朝、永田も金子さんも植垣氏が触ってきたことをうっすら覚えており(但し、悪い感じでは無かったそうです。)気まずくなったそうです。

これが、後に「植垣氏の痴漢問題」として、革命左派が赤軍派に対して優位になるカードとなってしまいます。同様な痴漢問題で、山岳ベース事件で粛清にあったメンバーが何人かいますが、相手がリーダーである永田洋子と幹部の妻(吉野雅邦)だけにまず粛清されてもおかしくない事件でした。ですが、植垣氏の登山のスキル、爆弾作りのノウハウ、電気工事・電波受信などの技術など、組織には欠かせない存在だった為に森と永田は重宝していたそうです。(当の本人はいつ粛清されてもおかしくないという覚悟が出来てたそうです)

次回は、植垣氏の彼女の大槻節子さんについて書きたいと思います。