赤軍派が一番の勢力を持つグループであれば、革命左派は少数とはいえ一番名前を上げたグループでした。

もともと、革命左派は毛沢東思想を中心に日本を共産主義の国に革命しようと考えていたグループです。リーダーは河北三男と川島豪で、河北は元々体調が悪かったせいか(数年後に死亡)活動から離脱します(持病を持つ永田を誘って田舎暮らしをすすめていました)。川島がリーダーとなりますが、過激な活動からすぐに逮捕され、当時幹部だった、石井功子(川島と捕まった川島の腹心・石井勝の妻)、川島陽子(川島の妻)、坂口弘(のちに永田洋子の夫)、柴野春彦(のちに名前を上げる事になる事件で死亡)、寺岡恒一(山岳ベース事件で森により粛清させられる)らがリーダーをやりたくない為に(リーダーになると公安にマークされたからです。)、革命左派の機関紙の編集長的立場であった永田洋子が勤めることになります。

永田は川島に強姦されたことがあります。また、川島が逮捕された後に川島の腹心の坂口と結婚します(事実婚)。この当時、永田は革命左派ではそれ程の地位はなく、幹部の妻であった、川島陽子・石井功子に追いつく為に川島や坂口と肉体関係になったのだと思います。
その後、リーダーになると、川島と石井を名古屋や大阪に左遷させて、自分の妹分である、 金子みちよ(吉野雅邦の妻)・大槻節子・杉崎ミサ子(寺岡の妻)らを活動の中心に巻き込み自分の発言建を磐石なものにします。

それと前後して、川島は獄中から自らの奪還作戦をさせる為に永田や坂口、柴野に命令を下します。(これは東京水産大学出身の川島と坂口が、手旗信号を手話でするという巧みな方法でした。)
柴野を奪還作戦のリーダーとして、上赤塚交番を襲撃させ、警官から銃を奪い川島がいる刑務所を襲うという稚拙なものでした。柴野はこの作戦で、警官に発砲され即死。このことが、赤軍派はじめ多くの新左翼グループから、「赤軍派は根性がある」と一目置かれたのでした。

柴野の死や川島陽子・石井功子の左遷で、幹部が永田・坂口・寺岡だけになり、永田の集団に作り変えられました。それを危惧して、川島は獄中から奪還作戦の指示や永田に対しての批判的立場を表明してきました。流石の永田も川島の影響力には敵わず、真岡市の銃砲店を強盗させ、その武器で川島を奪還しようという作戦に出ました。

作戦は成功しましたが、相次いで実行犯が逮捕され、全国に指名手配された永田と坂口、それと残りの実行犯は、群馬、新潟、北海道に逃走し潜伏しました。

革命左派は小さな集団でしたので、永田らは逃走中の資金繰りやカンパなどうまくいかず困窮してしまいました。そんな時に手を差し伸べたのがM作戦(銀行強盗)をして経済的に余裕が有る森がリーダーになったばかりの赤軍派でした。赤軍派としては革命左派の鉄砲と、M作戦で、坂東隊以外の部隊の殆どが逮捕され、兵隊と呼べる人材が枯渇していました。どうにか永田らを懐柔して、自分達の指揮下に入れたいと考えておりました。
革命左派としても武器があり人もいるけど、資金力が無いので活動に支障をきたしているので赤軍派のネームバリューと資金、全国に多く持つアジトは魅力的に感じました。

先程も書きましたが、革命左派は毛沢東思想であり、対して赤軍派といえば、キューバ革命で有名なチェ・ゲバラの思想をベースにした思想でした。

とても思想的に相容れるないので、まずは軍事演習をして、革命をする軍が提携を結ぶというところで、お互いの利害が一致したのでした。

次回からは、山岳ベース事件が起こる前に革命左派が単独で軍事演習を行います。その時に2名処刑されています。そのことについて書きたいと思います。