今では考えられませんが、当時の日本は貧しかったそうです。
労働者は働いてもそれなりの賃金を得ることも出来ず、企業だけの利益が膨れ上がっておりました。
また、戦後まもないので、米軍の駐在や反米意識が高く、資本主義経済も発展途上でしたので
なかには、ソビエトや中国をはじめとする共産主義・社会主義にしたほうが良いと考える人達も多くいました。

1960年代の日米安保条約締結で、日本が米国陣営として、「戦争に巻き込まれるのでは?」という危機感と、「親や子を殺された米軍と共に戦うのか?」という感情があり、大きな運動となりました。これが日米安保闘争と呼ばれました。

(そう考えますと、今の集団的自衛権の反対運動がマスコミと一部極左が騒いでいるだけなので、学生や大衆の支持を得られているとはおもえませんね。この反対運動、かなり還暦を超えた人が多いので学生運動の残党が、老後の趣味でやっているようにしか見えないのはあたしだけでしょうか?)

この時に樺美智子(かんばみちこ)さんが機動隊ともみ合いに成り、死亡しました。彼女を殉教者として、運動は盛り上がりましたが、次第に考え方が違う人達に別れて行きます。

(なんか、政権獲った後の民主党の権力闘争に似てますね。そもそも樺美智子さんが、強い意志をもって学生運動に参加したのか?ただの当時のファッションで参加したのか?機動隊に殺されたのか?
学生運動の騒動に巻き込まれて圧死したのかは?不明です。ただ、学生側は、権力に殺されたとかがけました。これが後にあさま山荘での機動隊の銃器使用の不可につながっていきます。)

60年代半ばになると慶應大学や早稲田大学でベトナム戦争反対の機運が高まります。当時の大学生は相当なエリートで、進学率も低かったので、「これからの世の中は我々が作る」という使命感が高かったらしいです。(もちろんFランク大学なんて存在しませんでした。)
また、日本大学で不明瞭な会計や学費の値上げが有ったりし、私立大学は学費を増やしたい為に大学の水準を下げ大衆化を目指したので、エリート意識を持つ学生達が大学を運営・自治しようという流が、全国に広がりました。

このころ、後に連合赤軍に参加する。植垣康博氏は、新宿で学生の集会に参加して機動隊と衝突します。(1968年新宿騒乱事件=東京戦争)アナゴさんやドラゴンボールのセルで有名な声優、若本規夫さんは、機動隊として最前線で学生達と対峙してたそうです。また、植垣氏の1つ上の先輩(弘前大学)で、ガンダムの漫画家アニメーターとして有名な安彦良和さんがいます。安彦氏は、植垣氏が東京戦争に参加する前に警察に捕まってしまったので、これがなければ、若本さんと対峙してたかもしれませんし、植垣氏と共に連合赤軍事件に巻き込まれていたかもしれません。(弘前大学からはもう一人青砥氏が事件に巻き込まれています。この三人が弘前大学での学生運動の中心的存在だったそうです。)

この他にも成田空港や羽田空港、米軍基地で、学生と機動隊の衝突や爆弾事件が相次ぎますが、機動隊の活躍や公安の地道な努力により、次第に学生運動は沈静化していきます。決定的になったのが1969年1月の東京大学安田講堂事件の鎮圧で、機動隊には敵わないと、活動の中心となっていた大学生も大半が運動から離脱しはじめました。(大半がファッション的感覚=男性なら女性にモテる。女性なら男性からカッコいいと思われる。という感覚)

学生運動を真面目にやっていた活動家達は、もはや、大衆に向けてのアピールや話し合いやデモ活動をしても機動隊が出てきて鎮静化されるので、武力による革命しかないと次第に先鋭化していきます。
そして、話し合いや穏便に解決しようとする者、考え方の違う人達を排除し、ゲリラ・テロリスト化していくのです。

かなり端折って書きましたが、大衆的だった学生運動が、次第に世間から放れていく様子が感じられます。どんどん、ふるいにかけられて、武力集団だけに選別されていくのですが、東大安田講堂事件がその大きなきっかけになりました。次回は、更にその武力集団がふるいにかけられる、事件から書きたいと思います。