これまで先史ポリネシア人の外洋航海による植民という壮挙を、3例挙げてきた。古い順にアフリカ、マダガスカル島への植民、南米西海岸への植民、そしてニュージーランドへの植民、である。


極北大西洋を航海したヴァイキングはカナダ東岸も発見していた​

 3つを振り返ると、広大な外洋の先に何かあるかも分からず、海図も六分儀もないのに、わずかな食料を積んで大洋に漕ぎ出した人類のフロンティア精神に、ただ脱帽するしかないし、驚異の念がつのる。

 ただ、それらに劣らない外洋航海の一例として、僕は古代ヴァイキングによる紀元1000年頃に行われたグリーンランドとカナダ東岸の発見と植民も挙げておきたい。北大西洋には太平洋にはない危険性があるからだ。グリーンランドを給源とする氷山群である。映画でも名高い豪華客船タイタニックは、グリーンランドから流れ出た氷山に衝突して沈没した。
 

北米北東岸に植民できたわけ​

 ちなみにヴァイキングの北米到着と植民については、すでに21年11月7日付日記:「ヴァイキングが北アメリカに建設した入植地の営まれた年代を特定:年輪に残された太陽嵐の痕」、及び10年12月15日付日記:「1000年前、アイスランドに向けてインディアン女性が海を渡った。ヴァイキングとの出会い」、で一端を述べたことがある。

 では、ヴァイキングはなぜグリーンランドに留まらず、北米北東海岸まで到達し、そこに一時的とはいえ植民できたのだろうか。むろん、これにも海洋民特有のフロンティア精神があるが、大西洋航海と植民を助けたものに、気候要因があったと思われる。
 

中世温暖期が北米北東岸の植民を助けた​

​ 実はこの頃、10世紀から14世紀にかけて、ヨーロッパは「中世温暖期(Medieval Warm Period:MWP)」と呼ばれる気候に恵まれた時代に当たっていた(;注 中世温暖期は地球規模ではなく、ヨーロッパに限られた局地的温暖化だったらしい)。​

 

 

 おそらくグリーンランドを漕ぎ出したヴァイキングは、今より少ない浮氷と氷山のおかげで、今のニューファンドランド島にたどり着けたのだ。1000年頃だった。入植したニューファンドランド島では、今より温暖な気候で作物がよく育ったかもしれない。

​​​​ 同島にはランス・オ・メドゥー(写真は現在の復元遺跡、中央は復元したディオラマ、は発掘調査で分かった住居跡などの位置)という、ヴァイキングの建設した入植村落も見つかっている。​​​​

 

 

 

 

 むろんヨーロッパ本土でも、中世温暖期の恩恵を享受し、農業生産力が拡大し、人口も増えた。
 

中世温暖期の後に厳しい小氷期​

 ただ、中世温暖期は長く続かなかった。

​ 14世紀半ば頃から、「小氷期」と呼ばれる寒冷期が始まり、19世紀半ば頃まで続いた。テムズ川やオランダの運河などが一冬凍結し(=凍結した川でスケートを楽しむ子どもたちを描いたピーター・ブリューゲルの絵)、大飢饉が頻発し、北極圏に近いアイスランドの人口は半減した。​

 

 

 もっとも北米に移住したヴァイキングは、小氷期の前にニューファンドランド島から撤退した。スクレーリングという正体不明の先住アメリカ人との軋轢で、たぶん十数年で撤退に追い込まれたと思われる。しかしこの入植地には女性もいたから、ここで生まれた子どももいた。最初のヨーロッパ出身のアメリカ人である。
 

グリーンランドのヴァイキングは小氷期の寒冷化で絶滅​

 さて、小氷期の厳寒化は、ニューファンドランド島より北の、彼らの出発地であったグリーンランドで顕著に現れた。農業作物は全く実らず、ヨーロッパ本国からの連絡も途絶えた。

 生き延びたヴァイキングは、やむなくオットセイやトド、クジラという海獣狩猟に生業を転換した。農耕民から狩猟民へと戻った希有なケースである。

​ しかしそれでも、食糧事情の悪化は止まらず、ついにグリーンランドのヴァイキング村落は1430年前後に壊滅した(写真=グリーンランド南端グヤダーに残るヴァイキング時代の教会)。生き残っていたわずかなヴァイキングは餓死した。​

 

 

 完全に北極の一部になったグリーンランドには、紀元1300年頃に、現在のエスキモーの祖型であるチューレ文化の集団が北部に定住、南のヴァイキングと交わることなく共存したが、ヴァイキングの死滅の空白を埋めるように南部にも進出したのである。


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