​ あの狂気の時代=文化大革命では、多数の無辜の人々が反革命と断罪されたが、憐憫の情を催せないのは、毛沢東とともに中国革命を成し遂げた元老たちへの過酷な処分であった。

 元老級では彭徳懐が最初にやり玉に挙げられたが、毛沢東は自己を国家主席の座から引きずり下ろし、事実上の引退に追い込んだ劉少奇も決して許さなかった。いや、劉少奇の追放こそ、権力闘争であった文革の真の目的だったと言えるかもしれない。

 

劉少奇、現職の国家主席(大統領)をも吊し上げ大会で撲打

 文革が激化する1967年4月、劉少奇は初めて批判されると、やがて紅衛兵の面前に引き出された何度も執拗な吊し上げを受けた(写真)。​

 

 

 同年7月には、中南海の自宅が紅衛兵たちに襲撃された。表に引きずり出された劉は、吊し上げ大会で2時間余りも口汚くののしられ、かつ肉体的暴行を受け、顔は腫れ上がった。当時、劉はまだ国家主席(アメリカなら大統領)だった。つまり現職の大統領に対して、このような暴行三昧が堂々とまかり通ったのである。警護の警官も公安も、見て見ぬふりだった。

 この後、夫人は逮捕され、子どもたちも自宅から着の身着のままで追い出され、劉は1人で自宅軟禁された。

 

党除名後も屈辱を受け続け​

 失意のどん底の劉に、さらに毛沢東は追い打ちをかける。まさに「水に落ちた犬を打て」だ。劉は、過去の法廷闘争などをあげつらわれてスパイ罪をでっち上げられ、1968年10月、党中央委員会で党からの除名・一切の公職からの解任処分される。

 その過酷な除名処分を、劉は軟禁状態の自宅のベッドでラジオで聞くよう強要された。

 老境の劉は、いくつかの薬を服用していたが、その薬さえ取り上げられた。生きる気力すら奪われる処遇の中で、歯は抜け落ち、寝たきりとなっても衣服の取り替えや排泄物の処理もされずに放置された。

 もう動くこともできない劉は、1969年10月に河南省に移送され、コンクリートむき出しの薄暗い倉庫に幽閉、約1カ月後に誰1人に看取られることもなく没した。

 

膀胱癌治療を毛沢東に妨害された忠実な友の周恩来​

 以上のように、無法と暴力のまかり通った文革期、1度でも毛沢東に睨まれた党・国家幹部は、悲惨だった。

​​ 最後まで毛沢東に忠実だったことにより文革期も地位を保った首相・周恩来(下の写真の上)も、晩年は高い人気を保ったことで毛に嫉妬され、膀胱癌の治療を妨害され、死期を早めた。周は1976年1月に死去したが(下の写真の下)、その8カ月後に毛沢東は死ぬ。健康に優れなかった毛は、自分が先に死んで死後に文革と自己の評価を覆されないように、周の死期を早めたのだとされる。

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 民主的な法規制を一切受けない、スターリニストの専横ぶりを体現した毛沢東に、今のスターリニスト中国の習近平の個人独裁がかぶるのである。

(完)


昨年の今日の日記:「衰退する香港経済;自由の無くなった国安法下で香港を見限り、

大量エクソダスで人口減」